くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

エール 時代は戦争へ⚔️

 

今日から放送されるエールはいよいよ太平洋戦争時代のエピソードが絡められる。

作曲家古関裕而を考えたときに真っ先に思いつくのは

戦時歌謡で一躍有名になったこと。

もちろん東京オリンピックのテーマソングは彼の集大成としてあまりに有名な事はもちろん事実。

しかし戦時中、戦意を高揚させるためにプロパガンダとして盛んに行われた軍歌の作曲。

古関裕而はまさに代名詞とも呼べる存在だった。

f:id:kuwa3972:20200921094915j:plain

出兵する兵士を見送る様は至るところで目撃された

目次

意外なきっかけで作曲された露営の歌

f:id:kuwa3972:20200921095159j:plain

露営の歌の歌詞を新聞で見かけた設定に

 実際のモデル古関裕而さんは実は列車の中で見かけた新聞にこの詩を発見。

その場でイメージが湧いてきたので汽車に揺られながら作曲したと聞いている。

いつも感心するのだが、古関さんも祐一君も作曲するときには楽器を必要としていない。

頭の中ですぐに音楽が鳴り響いてそれを書き写す作業が作曲となる。

したがって作曲家でありながら古関さんの書斎は、仕事中もいつも静寂に包まれていたと聞いた。

最近の作曲家を始めとする音楽家の例で言うと、たいていの場合、難聴にかかっていると言われる。

理由は簡単で、大音量の音をいつも聞いているから。

ストレスで聴力に障害が出てしまうのだ。

エールで語られる祐一君もモデルの古関さんも普通とは違った音楽との付き合い方をしていたので難聴になるようなストレスとは無縁だったろう。

そして、この物語の所々に出てくるいろんな人たちが皆楽器なしで音楽を頭の中に奏でているのだ。

作曲古山祐一 歌佐藤久志

f:id:kuwa3972:20200921095236j:plain

久志君も売れっ子歌手に

このレコーディングで歌手佐藤久志は一躍有名歌手の仲間入りになった。

これはモデルとなった伊藤久男と同様。

彼らは周りから請われるがままに 様々な軍歌を世に発表し続けた。

若鷲の歌など、終戦直前までその作業は続いていたのだ。

これらの売れっ子の音楽家としての活動は戦争が終わった後に彼らを大きく苦しめることにもなる。

実はこの戦時歌謡のヒットの影で全く売れなくなった作曲家がいた。

それが木枯正人こと古賀政男

彼はこのような軍歌をこしらえることには全く不向きな人だった。

戦争中はまるで売れない時代を過ごすのだ。

大ヒット曲❣️

f:id:kuwa3972:20200921095316j:plain

へーっ 短調なんだ😓

廿日市氏はこの歌は長調の行進曲のようなものを思い描いていたようだが、祐一君は出生する兵士や家族の気持ちに寄り添って短調を採用していた 。

不満タラタラだったが秘書の杉山さんが

これかなりいいですよ❣️

の一言でオーケーが出てレコーディングとなったのだ。

実はこのときの祐一君の心に寄り添う作曲方法は世の中に大きく受け入れられた。

50万枚を超える大ヒット作品となった。

この曲を足がかりとして次々とまた作曲することに。

確かにカラオケをするときにこのころの軍歌を好んで歌う人たちが結構いたりしてね。

これらの曲は、少なくとも日本人の心にしっかりと寄り添っていたのかもしれない。

久しぶりに吟ちゃん登場

f:id:kuwa3972:20200921095721j:plain

結婚直前 関内家にて

吟ちゃんのご主人は確か陸軍の軍人さんで大尉だったと思った 。

勲章などももらっているのでかなり著名な人だったとの設定。

この吟ちゃん夫婦がこの物語に登場してくるのは、戦争のエピソードが描かれるなら当然すぎるぐらい当然の流れ。

このご主人鏑木さんがわざわざ古山家を訪ねてくるところで物語は終わっている。

明日描かれることになるが、作曲依頼だったと思ったね。

戦争が激化する中で祐一君の知り合いも皆出征していくことになるのだ。

この頃のエピソードではこういった事は誰にもついて回る物語だった。

この後、祐一君本人もモデルと同様、当時のビルマ戦線に従軍取材班として派遣されることになる。

私の記憶の中ではあの苛烈を極めたインパール作戦に取材に行ったのではと思う。

あの作戦は史上最悪の作戦と呼ばれた。

作戦計画があまりにも無謀でデタラメで、戦闘行為以外で大勢の日本兵がバタバタと死んでいった。

そこに従軍したのだ。

素人目にも大変な目にあったことが想像される。