三船敏郎が亡くなって何年が経っただろう。
今年は彼の生誕100年にあたる年。
記念すべき年にあたるが、何度振り返ってみても記憶に残る映画俳優だと言える。
彼の特集番組は時々放送されるが、いつも興味深い。
すでにお馴染みの知ってることも含めて、今回調べ直すことに。
目次
生まれは中国青島市
彼は中国生まれで知られる。
北京と上海の中間あたりにある港町 青島市の生まれ。
両親はもともと日本で生まれたが、家族との折り合いが悪く中国に渡ったと聞いている。
そこで営んでいたのが写真業。
三船敏郎本人も父親が、若い頃亡くなっているので、写真の技術は家業を手伝ってプロ級だったと聞いている。
また、三船敏郎の幼い頃で言えば母親が若くして亡くなったことが挙げられる。
彼がまだ小学校の低学年だった頃、母親は産後の肥立ちが悪くてそのまま亡くなってしまった。
長男だった三船敏郎は父親の仕事を手伝いつつ18歳までは中国で暮らしたのだ。
やがて徴兵制度により甲種合格。
その頃、日本にわたって陸軍の航空部門に配属となった。
従軍経験
陸軍に配属になってからは先輩たちの猛烈なしごきに顔が変形するほどだったと聞く。
この当時の平均的な日本人は身長160センチちょっと。
しかし、三船敏郎は174センチの身長で、かなり大柄だった。
彼は軍隊の先輩に殴られても簡単には倒れなかったので、余計にボコボコに痛め付けられたと本人の弁。
そのぐらい痛め付けられながらも決して音を上げることなく兵隊としての務めを果たしていた。
特に写真技術の高さを買われて偵察機の偵察要員としてその腕前を発揮することとなる。
要するに飛行機で飛んで航空写真を撮って、その写真をもとに地図を起こしていくという。
三船自身も自分自身の得意分野が仕事に生かされることでやりがいを感じていたようだ。
やがて軍隊内でも出世をして、若い兵隊たちのまとめ役を仰せつかることに。
そこでは特攻兵として飛び立っていく若者の世話係になったのだ。
彼自身の心の底には、戦争に対するある種の憎しみのようなものが備わっている。
彼は戦争が終わったときにこのように叫んだと言う。
ざまぁみろ!
戦争なんかくそくらえ‼️
兵隊として軍に所属していた彼の偽らざる心境だったと言える。
人が特攻兵としてみすみすと死んでいくことを決してよしとはしていなかったのだ。
むしろ、その作戦は明らかに間違っていると心の中では大声で叫んでいたに違いない。
東宝ニューフェイス
もともと映画俳優になろうとはまるで考えてはいなかった。
ただ、戦争が終わった後で映画会社で人を募集している話を聞いたときに、自分の写真の技術は絶対に役立つに違いないと履歴書を出すことにしたのだが、実はそこに種明かしがある。
三船敏郎の友達がこともあろうに技術職ではなく俳優部門に彼の履歴書を応募したのだ。
それが、ことの出発点。
書類審査で通って面接となったのだが、面接官に質問をされてもぎょろっと睨み返すだけで、まともに返事もしない。
ふてぶてしさの塊のようなそんな態度で面接に臨んでいたのだが。
実はその破天荒なキャラクターが俳優としての三船の才能を評価してもらえることに。
当時、一緒にニューフェイスに合格した仲間たちが皆口にするのは、とにかく三船敏郎は生意気で、およそ俳優には向かないような雰囲気だったようだ。
しかし、いざ俳優としての仕事が始まってみると、その集中力は半端でなかった。
それは三船本人が必死に努力していた証にもなるのだが、その努力している姿は人にはほとんど見せなかったようだ。
三船敏郎は撮影現場に台本を持たずに入ることで有名。
現場で台本を見る必要がないらしいのだ。
つまり全て頭に入っている。
休憩時間ともなれば、他の俳優たちは皆台本と首っ引きでセリフの確認をするのだが、三船にはそういう事はなかった。
そして演じることに関して、絶対に妥協しない精神で臨んでいたようだ。
三船敏郎の目指すべきマインドは役柄になりきること。
撮影の本番前に必ずカメラテストを行うが、そのテストの時と本番の時と寸分違わぬ演技をすることでよく知られていた。
特に動きのあるシーンなどは持ち前の運動神経が存分に発揮されたらしい。
数メートル歩いて演技をするシーンなどでも、まるで歩幅を図ったかのように全く同じ演技を繰り返すことができた。
そこに至るまではかなりの試行錯誤があったはずなのだが、そのことが彼の口から語られる事はなかった。
世界のミフネに
日本の映画で名前が売れた頃、外国からもお声がかかるようになった。
メキシコ映画に主役のメキシコ人として出演したこともあるが、その時のわずかな映像を見させてもらったがしっかりとスペイン語を話していた。
映画で主役を演じるのだからと死に物狂いでスペイン語を勉強したと聞いている。
もともと三船敏郎は役者としては日本ばかりではなく世界中で活躍しようと思っていたようだ。
また世界中の著名な映画監督も三船敏郎の役者としての存在を高く評価していて、また親交も深かったと聞いている。
知っての通り日本の映画だけではなく、ハリウッド映画などでも三船敏郎の演技はちょくちょく見かけることが。
主な活躍の場は日本映画だと言えるが、しかし三船敏郎は外国映画に出演することに相当の情熱を傾けていたと思われる。
特にそれは外国からの三船敏郎の評価が著しく高かったので、自分自身の役者としての値打ちにも誇りを持っていたようだ 。
レッドサン撮影時は共演する俳優や監督なども三船敏郎の了解で選ばれたと聞いている。
そのぐらいの影響力が与えられていた。
三船敏郎の俳優度
三船敏郎の映画を考えたときに絶対に外せないのが監督黒澤明だろう。
ある意味、黒澤作品で三船敏郎の真価が評価されたと言っても良いのだ。
それは監督と俳優の間ながら、世間一般では理解し難い部分でつながっていたようにも思える。
三船敏郎は台本のセリフを覚えるときに文字に書いて覚えていたようだ。
そして台本にも言細かに注釈が書き添えられていた。
役柄になりきることこそが彼の真骨頂だと周りも本人も自覚している。
同じ時期に活躍していた俳優の志村喬が
三船の演技はへたくそだ!
だがあいつでなければ役柄は務まらない!
不思議な評価だが、的を得ている発言だろう。
スピルバーグに言わせれば彼の演技は威厳に満ちていると評価されていた。
つまり、三船敏郎はどんな役柄を演じてもその心の奥底にサムライ精神が宿ると。
彼は欧米ではサムライ俳優と呼ばれたのだ。
それは別の表現をすれば命を表すことに潔いと言うことだろう。
三船敏郎の真骨頂がそこに端的に現れる。
世界中の映画監督が憧れる映画に7人の侍がある。
娯楽映画としては申し分のない作りで、悲劇も喜劇もたっぷりと盛られていて、映画を見終わった後の満足感爽快感はこの上もない。
7人の侍を撮影した時、三船敏郎はすでに30歳を過ぎていたがずいぶん若々しく演技をしていたではないか。
それらを考えるとこの映画以降の彼の出演作品の値打ちがさらに増すんだろうと思うのだ。