「 8月15日は終戦記念日」と同時に、ちょうどお「盆の中日」にあたる。
昔から盆と正月と言って、この時は家族皆が集まってご馳走などを食べる習慣が。
一人暮らしの我が家では改めて何かをすることもなく、昔からやってきたいくつかの習慣を継続するのみ。
この時期はいつもいろいろなブログで「お盆の歴史」をアップするが、今日もこの日にちなんでご供養の意味も込めて紹介したい。
目次
お釈迦様と弟子たち
今から2500年ほど前、お釈迦様の教団はインドでも有数の宗教教団として多数の弟子を抱えていた。
出家と在家に分かれてはいたが、「出家した男性修行者を比丘、女性を比丘尼」。
在家の男性修行者を「優婆塞、女性を優婆伊」。
そう呼んでいて、それぞれ修行の境界に合わせた戒律などを守っていたようだ。
特に優秀とされる比丘は 10人ほど。
これを10大弟子と呼ぶ。
その中でも特に修行の優れた弟子が2人いたそうな。
1人は知恵第一と呼ばれた“サーリプッタ(舎利弗) ”
もう1人は神通第一と呼ばれた“モッガラーナ(木蓮) ”
この2人は仲が良かったことでもよく知られている。
特に舎利弗はお釈迦様の名代として人々から厚く信奉されており、お釈迦様の代わりに説法することも多かったのだ。
そして木蓮は、神通力を駆使したことで知られる。
彼に備わった超自然的な力は周りの誰もが一目置くところであって、普段、木蓮は口数がほとんどなく黙っていることが多かったので、皆木蓮の周りの人たちは彼の話を聞きたかったと言われている。
彼には様々な逸話が残っている。
彼の関わった逸話の中では、どれも共通しているのは、彼自身の持つ霊能力、また物を精神力で動かすなどのサイコキネシス。
こういったことが知られている。
彼の持つ霊視能力は、お釈迦様自身も太鼓判を押しており、“木蓮”が見るものを私も見ると公言していた。
木蓮と舎利弗はお釈迦様の両腕として働いていたが、しかしお釈迦様よりも先にお亡くなりになるのだ。
理由はとても単純で、お二人ともお釈迦様よりはご高齢だったようだ。
2人が亡き後も、お釈迦様の教団は様々な信者を抱えて活発に活動をしていた。
マハーモッガラーナ(木蓮尊者)
木蓮はもともとはバラモンの出である。
バラモン教の教えには飽きたらず、お釈迦様の門を叩いたとされる。
舎利弗と並んで早い時期にお釈迦様と同じ悟りを得て、仏陀として活躍されていた。
木蓮は若い頃、勉強するために母親からの支援を受けていた。
今風に言えば、教育熱心な母親から様々な援助を受けて何不自由なく勉強ができたのだ。
舎利弗とともに、当初はお釈迦様以外の修行者に弟子入りしていて、そこで修行をしていたのだが、ある時にお釈迦様に出会って、師匠を変えたのだ。
優れていると感じたならすぐに行動して自分自身の中に取り入れる。
先進的な考えを持った求道者だったのだ。
モッガラーナのお母さんの話
木蓮にとってはこの世で1番優しかった母親であるが、残念ながらそれは木蓮だけに優しかったのだ。
彼女は商売をしていたのだが、今で言うところのサラ金とか そういった感じの仕事。
昔の言い方だと高利貸し。
実はこの仕事をする上で、悪辣非道なことを散々やっていたようなのだ。
つまり、厳しい取り立てで、病人や困っているものも情け容赦なく着ているもの、布団などをひっぺがして持っていったと聞く。
実はこうした非道な行為の数々で多くの人から莫大な恨みを買っていたようなのだ。
その恨みがあるゆえに、彼女は亡くなったときに成仏することができず餓鬼地獄に落ちた。
木蓮は優しかった母親だから必ず極楽に入ると信じていたが、ある時ふとしたきっかけで穏やかに休んでいるだろう母親の様子を自分の持っている霊能力を駆使して探してみたもの。
しかし、極楽の隅から隅まで探しても見つけることができず、様々な世界を探したが見つけられず、まさかと思って地獄にまで捜索範囲を広げてみた。
実はその地獄の河原で発見するのである。
見るも無残な餓鬼の姿でおいおい泣いている。
“腹が減った〜”
“喉が渇いた〜”
慌てた木蓮は、自分自身の持てる力をフルに発揮してお供物を母親のもとに届けるのだが、驚くことに差し出した食べ物も、飲み物も、母親が口にしようとすると、火を吹いて燃え上がってとても食べられるものではない。
さすがの木蓮も疲労困憊して母親を助けることができず、お釈迦様に助けを求めることに。
その時にお釈迦様から母親の一部始終について説明を受ける。
生前成した悪業によって今の地獄に落ちている。
救うためには母親だけを救おうとしてもそれは無理で、他にもいっぱい亡者がいたはずなので、その亡者たちも含めて救ってあげるようにすれば、母親は苦しみを脱することができるだろう。
そう言って、この時期、仏教教団に帰ってきたお坊さんたちに自分自身の財産を全て分け与えて供養を捧げて祈ってもらいなさいと。
多くのお坊さんに祈ってもらえれば母親は苦しみを逃れることができる。
木蓮は自分が母親から受け継いだ財産を全て使い果たして供養を捧げて祈ってもらうことをお願いしたようだ。
実は、このときの大勢のお坊さんが救いを求めている亡者たちを助けるために行う行事が今のお盆の行事の始まりとされる。
お釈迦様の在生当時、インドは夏 雨季が始まると、あちこちで説法にまわっていたお坊さんたちがお釈迦様の元へ帰ってきて一休みする習わしだった。
これを夏安居(ゲアンゴ)と呼ぶ。
この時を利用して祈りの儀式を捧げた。
今も夏の時期に行われるのはこうした故事に習っているからだ。
ちなみに、日本ではこの時期はお盆と呼んでお彼岸と並んで先祖供養を家族みんなで行う日としている。
供養の正式な名前は盂蘭盆会(ウラボンエ)と呼ぶ。
この盂蘭盆と言う言葉の意味は、逆さ釣りに遭うほどの苦しみと訳される。
木蓮の母親の味わった地獄は、逆さ釣りに遭っているのに等しい地獄だった。
施餓鬼供養
お寺などでお盆の法要をするときには、このような施餓鬼壇をしつらえて供養をする。
これは餓鬼地獄に落ちた亡者たちに喰べ物や飲み物を供するため。
このような亡者たちは、明るく晴れがましい場所には出て来れないとされている。
つまり暗がりでなるべく端っこで人目がないところ。
そういった場所でしか活動できないようだ。
理由があって、自分自身の姿かたちがひどく醜いことを、恥ずかしいと思っているから。
このような施餓鬼壇はこういった事情を考慮して、なるべくお寺などの角のほうの暗いところにわざわざしつらえて供養するのだ。
そして食べ物は、主食のお米とか副食の野菜とかをあらかじめ混ぜてわざと粗末に作るのだ。
儀式の方法はいろいろあるようだが、作法としてはお供物を持った盆からお坊さんが直接食べ物をつかんで放り投げる形をとるようだ。
そのようなやり方でなければ亡者たちのお腹の中には届かないのだ。
しかし、これらの施餓鬼供養をすると亡者たちは腹いっぱい飲んだり食べたりできてとても満足すると聞いている。
1年にわずか1度しか行われない行事。
このような不思議ないわれを秘めていた。
熱心な人ならば普通のご家庭でも、夜、裏口から暗い中に出て、そこでコップか何かに水を持って、地面にその水を3回くらいに分けて注ぐのである。
その行為は亡者たちに水を飲ませてやる行為。
もちろん、普通の人は霊能力があるはずもないので水を飲む亡者たちを見ることはできない。
しかしこのようなご供養は気持ちが大切。
こういった昔からの言い伝えを、しっかり理解してご供養を捧げるならば、そこで発生した功徳はやがては自分に返ってくるとされている。
もとより自分自身に返ってくる供養をあてにしてできる行為ではない。
どこまでも、“おみたまをお弔いしたい”その気持ちを表すためのもの。
もし、ここまでブログを読んだ方がいて感じることがあったならば、試されるのがいいかなと。