物語は、脚本家が温めていた方法が披露される形で描かれる。
昨日の続きで1957年と1927年が交錯する形。
昨日登場した藤平紀子と千鶴とのやりとり。
2人は万太郎の標本の一覧表を作るために、それぞれの記憶とアイディアを駆使しながらアプローチを。
標本の表書きは改めて確認しようとすると曖昧な部分があって、作業が難航することが予想された。
またこの時、藤平も千鶴も子供がいることが物語の中で語られた。
昨日千鶴が槙野姓を名乗っていたことで結婚したことがないか、離婚したかと想像したが、どうやら離婚したらしい。
そして男の子が1人いるとのこと。
2人で食べていたお昼ご飯の親子丼はどうやら千鶴の母寿恵子の味付けらしい。
さて時代はさかのぼって1927年。
万太郎は練馬の大泉の広い屋敷と敷地で研究生活を続けていた。
どうやら近所の子供たちも来ることがあるらしく、賑やかに暮らしている様子が語られた。
そんな中、寿恵子は思いがけない体調不良の症状が出ていたようだ。
お茶の急須を落として割ってしまうことが時々。
この時はまだいずれ万太郎が病院に連れて行くと言うレベルの話でしかなかったが、実際は大きな病気が見つかるようだ。
そして懐かしいお客さんが2人
羽多野と藤丸。
羽多野が学士院の会員になったことで、そのお祝いとのこと。
そしてさらに新しい話が。
羽多野は万太郎に理学博士になることを勧める。
目次
1957年藤平と千鶴
物語の最後になって、この2人が重要なエピソードを語り継いでいく。
千鶴はこの家で両親を看取ることができたと語っていた。
そして結婚して息子が1人。
すぐに別れてしまったので、今は元の槙野姓を名乗っているようだ。
藤平も会話の中でわかったことだが、朝 子供の世話で大変な様子が伝わってきた。
この時は昭和33年で高度成長期に入る直前。
記憶に間違いなければ所得倍増計画が発表された頃ではなかっただろうか。
東京では団地などが造成され始めただろうと記憶する。
2人の会話の中にあったが、父親の万太郎はいつもおさがわせの張本人だったらしい。
しかし、周りのみんなに愛されていたと。
誰からも好かれる人だから偉大な仕事を成し遂げられたんだろう。
万太郎の行動記録をひもとく
たまたまアルバイトでやってきた藤平紀子は過去の仕事の経験から検索する作業が得意なようだ。
物語の中では、万太郎のメモから植物の採集場所を特定するための情報が不十分で行方不明になる可能性も指摘されていた。
その時の参考になったのが採集場所で利用したその土地の新聞。
日光山の表書きから全国にいくつかある場所を特定するための手がかりになったのが標本を挟んでいた新聞。
なるほど、優秀な人ならわずかな手がかりから目的の場所にたどり着くことができる。
植物標本の分類作業はこのようにして進められたんだろうと推察する。
1927年練馬大泉
昭和2年の練馬大泉。
既に寿恵子も万太郎も年老いていて、若い時のようには活動できない。
今日描かれたエピソードの中で、子供たちが万太郎たちを訪ねてくるシーンがあった。
その中でお茶を子供たちに振る舞うときに寿恵子が急須を落としてしまっていた。
どうやら物語の中で語られた内容によると、これが初めてということでもなさそう。
千鶴が
また? と語りかけたセリフで事情が理解できる。
万太郎は時期を見て病院に連れて行くと言う。
すでにモデルの牧野夫妻の奥さんはガンで亡くなったと伝わる。
しかも、この物語とは違って、奥さんは11歳年下だった。
年代を見ると、ちょうど物語の万太郎達と全く同じ。
奥様は写真の翌年亡くなられているので、らんまんも同じような描かれ方をする可能性が。
旧友との再会
沼津からやってきた藤丸と学士院会員に推薦された羽多野。
この2人は東大の学生の頃からの知り合い。
最初は打ち解けなかったけど、やがて万太郎の無二の親友として長い付き合いが始まる。
羽多野は万太郎に理学博士になることを勧めに来た。
モデルの牧野博士がしっかり博士号を取得しているので、これはその通りに描かれるものと思われる。
無冠だった万太郎も肩書を持つことで研究生活の集大成を成し遂げるにはちょうど良かったのかもしれない。
物語はあと3話で完結する。
これから注目するべきは植物学雑誌の全国版の刊行と寿恵子の様子。
どんな最終話が準備されるのか、撮影はとっくの昔に終わっていると思うので後は結果を待つばかり。