どうする家康が語り継ぐ歴史は私実に忠実に描くとしつつも、注目すべき点が今までの歴史物とは少し違う気がする。
時代劇としては完成度も高く面白おかしく作ってあるが、今までのドラマではあまり注目されなかったようなところが今回クローズアップされた。
しかし、厳格に歴史を考察するとドラマで描かれた内容にも若干無理があるのではと思う点も。
今回描かれた於愛の方が家康と再婚するエピソードが採用されていたが、最近の研究ではそれは物理的に難しいとされているようだ。
於愛の方は一般的には西郷の局と呼ばれる。
戦争未亡人の状態で家康に見染められて側室に入ったとされるが、最近の研究では年齢的に無理があると言われる。
しかし、徳川幕府においては二代将軍秀忠の生母になるので、歴史的にとても重要なポジションに位置する。
年齢を調べてみても、徳川家康の19歳年下で親子ほども歳が離れていた。
さらには、徳川家康は最初の正室瀬名を失ういきさつが織田信長が原因とされているようだが、最近の研究では家康と瀬名の夫婦仲が悪かったのが原因らしいと言われる。
家康は、長男の信忠もできれば排除したがっていた。
そのための口実を探していたのが、どうやら理屈としては通りそうな雰囲気。
この頃、家康は秀吉の部下として、あちこちで仕事が立て込んでいた。
家康が留守の間に起こった事件が、ドラマの中で大きく取り上げられていた。
目次
於愛の方
一般的に知られているのは西郷の局。
しかし、徳川家ではほとんど正室扱いされていたとも伝わる。
それだけ周りから信頼されていたということだろう。
物語の中では彼女が実は再婚で若くして夫を戦争で失っており、2人の子供がいるとの設定になっていた。
調べてみると13歳ないし14歳位で2人の子供がいることになる。
また、最初の夫が早くに亡くなっていることを考え合わせると、どうやらこれはただの言い伝えで捏造だとされているようだ。
鎌倉以降の日本の社会では、女性に対する記述は驚くほど少ないのかもしれない。
生年も没年もわからない場合が多いのだ。
於愛の方は家康よりははるかに年下で、しかも28歳で亡くなっていると伝わる。
どうやら参考にすべきはその辺で、物語は史実をなぞる形にしているが実際の事とは食い違いがあると思ったほうがよさそうだ。
秀吉と家康
この頃の秀吉は頂点を極めていて、少しずつ暴走し始めた頃だと思われる。
徳川家康は、豊臣秀吉の最も力ある家臣として重要な仕事を任される場合が多かった。
特に関東方面では北条家とのやりとりが重要な意味を持ってくる。
北条は豊臣秀吉に従わないことを選んだ。
徳川家康とは懇意にしていたとされる。
そういった事情を全く考慮しない秀吉は北条を滅ぼしてしまえとにべもない。
豊臣秀吉の優秀な部下に弟の豊臣秀長がいるが、彼は早くに亡くなってしまう運命。
物語の中でも自らが病気に侵されていることを告白する秀長の様子が描かれていた。
豊臣秀長がいなくなった後秀吉は朝鮮への出兵を決める。
典型的な暴走老人になり果てる。
この後始末はかなり長引くことになるが、結果を見る前に秀吉自身もこの世を去ることになる。
豊臣秀吉の致命的な弱点はどうしても身内が少なかったことが挙げられる。
また子供もさらに少なかった。
豊臣秀吉にとって跡継ぎ問題は何にも増して重要課題だったと言える。
鳥居元忠と千代
徳川家の重要な家臣に鳥居元忠が挙げられるだろう。
家康に忠実な部下として定評があったが、その彼が武田の家臣の娘をかくまっていると言う。
その事件が詳しく語られていた。
特に本田忠勝が鳥居元忠を指して、真田に凋落されていると全く引き下がる気配がない。
そして、千代は自分のことを信じるものはいないと開き直ってしまう。
この2人の出来事は、於愛の方の意見を取り入れて家康は許すことにしていた。
その様子を見ていた本田忠勝の娘稲は今まで拒み続けていた真田への輿入れを受け入れることになる。
それぞれのエピソードを絶妙に絡ませて物語を組み入れるのは、今回のドラマの脚本家の真骨頂かもしれないない。
うまい具合にまとめあげていると思う。
茶々お市に生き写し
当初から噂のあったお市と茶々の一人二役。
北川景子が語ったところによると、このドラマのオファーがあったときに最初から一人二役で受けていたそうな。
もちろんネタバレは絶対にしないので、我々見ている側が気がついたのは、ドラマ放送の当日。
そして北川景子が語ったところによると、2人のキャラクターが際立つように演じ分けるつもりで取り組んでみたと。
その作戦は見事に的中したと言える。
お市と茶々は同一人物が演じているとは思えないほどキャラクターに大きな差がある。
徳川家康始め、周りの者たちがあっけに取られる様子が痛快だった。
さて、いよいよ物語は少しずつ佳境に入っていくと思われるが、豊臣秀吉はこの後ほどなくして亡くなってしまうはず。
彼は1918年関ヶ原の戦いの2年前に亡くなるはず。
いよいよその後は徳川家康が本領を発揮し始めるものと思われる。