もう、明日から8月になるので、私の記憶の中でも終戦記念日前後の様々なエピソードが思い出される。
戦後の生まれの私なので、正直戦争の記憶はないが、戦争体験者の話は様々耳にしたことがある。
さて、たまたまテレビを見ていたら小野田寛郎さんの特集番組が。
そういえばそんな人がいたようなと私の中のはるか昔の記憶。
ある程度内容は知っていたが、きちんと調べてみたらどうなるのだろうかと、今回改めて調査し直すことに。
目次
フィリピン戦線での戦い
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小野田寛郎さんがフィリピンでの戦いで、そこに戦後ずっと取り残された事はもう誰もが知っているところ。
小野田さんは1944年にフィリピンに配属になり、翌年終戦を迎えてそのまま残留となった。
それから任務解除の命令がなかったことで、29年にわたってルバング島に居続けることに。
小野田さんが上官から受けていた命令は
- 絶対に投降してはいけない
- 特攻覚悟で突撃してはならない
- 自害してはならない
- 絶対に生き延びて情報を収集せよ
- 命令解除になるまで作戦行動を続けよ
これがフィリピンに残った小野田さんに与えられた 命令。
地図で調べてみるとルバング島はフィリピン本当のすぐ横にある本当に小さな島。
当初ここには小野田さん以外にも何名かの兵士が取り残されて一緒に活動をしていたようだ。
1974年に見つけられて日本に帰るまで、もう1人の仲間と2人で共同で過ごしていたようだ。
そのもう1人の仲間は1年ほど前にフィリピン軍との衝突で射殺されている。
その時のインタビューでは、フィリピン軍に憎しみの気持ちが湧いてきたという。
小さな島で生き延びていくためには、食料その他自前で準備するには限界があったようだ。
そのためにルバング島の住民の家に押し入り略奪をしたり、家畜を奪ったり、本来は許されないようなことをやらざるをえなかったようだ。
私が見た番組の中では当時のフィリピンの住民のインタビューがあった。
小野田寛郎さんは憎しみの対象である。
少なくとも日本人が考えているような英雄なんてものではない。
我々の家族を殺し、そして財産を奪った犯罪者であると。
家族に危害を加えられた直後は、小野田さんを殺そうとさえ思っていたようだ。
また、日本兵の残党として警察からも追われていたとされている。
実はこの負の思い出とも言うべき、フィリピンでの出来事は小野田さん自身、正確に全てを語っているようには思えなかった。
当時の新聞記者たちの帰還直前のインタビューもあったが、すべての質問にノーと答えていた。
つまり、スピーカーでの呼びかけや、チラシなどが盛んに撒かれていたが一切目にしたことも聞いたこともないと答えていた。
しかし別の調査の報告にはすべての情報をきちんと把握していた旨を申告している。
74年に人前に出てきた段階では、まだ目の前の記者たちは信用されていなかったようだ。
生き残るためとは言え、殺人も略奪も犯さざるを得なかった。
そして帰ってきてから降ってわいたように英雄扱いされてみても、実感がわかないのは当然と言えば当然。
ジャングルから出てくる時も、上官からの命令解除の指令がなければ応じられないとそう言い張っていたのだ。
この頃の映像で見る限りまだ軍人としての作戦行動中と思われる。
発見したときの周りの人の印象を聞いても、驚くほどの目つきの厳しさ。
29年間死線を潜ってくれば 、こんな顔になってしまうのかと。
よく知られているところでは、小野田さんは旧中野学校の出身。
主にスパイ活動を中心として教え込まれていたようだ。
小野田さんは調べると、とても頭の良いことがわかる。
兵隊になる前に海外で働いた経験があって、外国語を普通に話せたようだ。
そのような語学力もあって、中野学校に推挙されたようだ。
45年の8月に終戦を迎えていたのだが、その情報もある程度は把握していたような話だったが、すべては小野田さん達自身に与えられた命令にしたがって、事実とは認識していなかったような風だ。
特に昭和33年に当時の皇太子殿下が結婚されたニュースも、日本の繁栄の状況がよくわかったので、どうやら戦争には勝ってこれだけ繁栄したんだと、勝手に思い込んでいたようだ。
ジャングルで生き延びた29年は、生きながらえたこと自体がほぼ奇跡と言っていいのに。
29年間戦い続けた挙句
小野田さんが首尾よく投降できたのも、関係各位の手厚い配慮があったから。
まず当時の大統領から恩赦の特例が出ていたのである 。
すでに、フィリピン警察からお尋ね者としてのレッテルを貼られていたので、人前に出てくれば逮捕されてしまう身の上。
まずそのことをクリアしなければとても人前には出られなかったのだ。
そのためにはフィリピン軍が護衛にあたって、部外者が一切立ち寄れないようにしてあった。
小野さんに家族を殺された者たちは、彼を暗殺しようとさえしていたようなのだ。
ルバング島では島民にとってはそれぐらい憎まれていた。
写真は当時のフィリピン大統領マルコス。後ろのほうに大統領夫人のイメルダさんの姿も。
大統領が軍に与えた指令は小野田さんに絶対危害を加えさせるな。
必ず守れと。
小野田さんが日本に帰ってきてからはまさに英雄扱い。
最初はにこやかに手を振っていた彼も、やがてこわばった表情に。
日本の繁栄している事はよくわかって、国は変わっていないが、人はずいぶん変わってしまった。
そのことを受け入れるには、自分にとっても、とても厳しい。
番組の放送の中で様々なことが語られているが、私が知っているエピソードだと、当時の総理大臣鈴木善幸氏とは握手をし歓談をしている。
また護国神社にもお参りをしている。
しかし、皇居に行って天皇陛下に謁見することだけはお断りしたようだ。
皇居を遠くから眺めてお辞儀をするところまではやっていたようだが。
天皇陛下に謁見しなかったのは、「もし会えば、天皇陛下は私に頭を下げるしかないだろう。天皇陛下の兵士として戦った私にはとてもそんな事はさせられない。」
実はこのエピソードは、私は本人の口からは番組の放送の中でも聞いているわけではない。
ほかならぬビートたけし氏の口から聞いているのだ。
映画監督として活躍し始めた頃、たけし氏は小野田さんと会話する機会があったのだそう。
その時に小野田さんの口から直接聞いたのだと言っていた。
小野田さんは日本に帰ってきてから2年ほどしか日本にいなかったのだが、その間、死に物狂いで様々な事柄を整理し続けていたのだと思う。
そして本人の口からは多くは語られてはいないが、作戦行動によって、多くの人を殺し略奪を繰り返していたことに人としての自責の念を抱いていたのかも。
これも当時ニュースになったのだが、日本政府は小野田さんの犯した犯罪行為に対して、フィリピン政府へ恩赦のお礼として3億円を支払ったと聞いている。
国の命令で戦ったことゆえ、作戦行動における様々な結果は命令したものが請け負うのは当然と言えば当然。
しかし、29年間のほぼ人として犠牲を強いられた年月は、小野田さんを日本国内で立ち直らせることにはならなかったのだ。
発見時51歳 新たな人生を生きるために
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この奥様と結婚する前に、親戚のツテを頼ってブラジルに移住することを決めていた。
奥様とはその直前に知り合っている。
知り合うきっかけは、奥様が小野田さんの写真を本か何かで見たことがきっかけ。
日本人として驚くほどの責任感の強さと、人を射抜くような眼光の鋭さ。
そのことが信じられないほどの印象で心に突き刺さったようだ。
ほどなくして、奥様は小野田さん本人と会話をするチャンスに恵まれる。
その後すぐに意気投合し、2人で結婚しようと決めたらしい。
そしてブラジルにわたって牧場経営を志すのだ。
ブラジルでの様子も番組の中で詳しく語られていた。
見ていてとても印象に残ったのは、ルバング島で発見された時とはまるで表情が違っていたこと。
とても温厚で穏やかで、過去に想像を絶する過酷な経験をした人には見えなかった。
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この写真は当時の皇太子殿下との様子。
晩年はブラジルから日本へ半年ほど通うような、そんな暮らしをしていたと聞く。
ブラジルで牧場経営を半年やった後、日本へ来て子供向けのサバイバル教室を開いていたようだ。
日本に帰国してからは、自分の居場所を探す行脚を続けていたと言える。
実は当時のインタビューで私が覚えているのは、クラシック音楽のファンでもあったようだ。
彼が好きだったのはベートーベン。
ショパンは甘ったるく感じて肌に合わないとそう言っていた記憶が。
もっとも、よく聞けばショパンはそんなに甘ったるくは無いんだけれど。
ピアニストの解釈で随分変わるから。
やはり、ベートーベンの重厚な響きを好んだ様子。
長年のジャングル生活でも小野田さんは病気らしい病気をしたことがなかったと言っていた。
この厳しい状況で健康を維持できたのは、体がもともと丈夫だったからにほかならない。
普通の人ならば生き延びることさえ不可能だろう。
頑丈な体と粗食に耐える精神力。そしてひたすら命令を遂行する忍耐力。
昭和49年当時の日本人は高度成長期の真っ只中で、はっきりって豊かさの中に埋没しようとしていた。
小野田さんの持ち合わせていた気持ちとは真逆の状態だったのかも。
そのような日本の国にある程度は見切りをつけたのかも。
本人曰く日本を捨てるつもりではないとは言っていたのだが。
正直な気持ちでは、おそらく愛想をつかしたのだろう。
インタビューの様子を見ていてそう感じたのである。
小野田さんが伝えたいこと
小野田さんが子供たち向けにサバイバル教室を開くきっかけになった日本での痛ましい事件があった。
エリート学生だった子供が、自分の両親を金属バットで殴り殺した事件。
そんな事件が社会を賑わしたことがある。
実はその時に小野田さんは日本人の心が取り返しのつかないところまで荒廃していることを知ったようなのだ。
そこで、自分にできる事は何かと考えてサバイバル教室を提案。
そこで子供たちに教えたのは技術的なことばかりではない。
何か行き詰まった問題が起きたときに、自分で努力してもどうしようもなくなった時に自分の周りをよく見ることだと。
自分1人で抱えるのではなく周りの人に相談すれば必ず良い意見を聞くことができるんだよと。
私が感じたのは、どのような逆境においても1人で抱えてはうまくいかないと言うこと。
可能な限りコミニュケーションの取り合える仲間を作っておくこと。
ジャングルで29年生活して、そのうちの28年は共同生活だった小野田さん。
ジャングルで1人生活したのは1年ほどなのだ。
つまり、協力しあえた仲間が1人いて28年頑張れたのだと。
これからの若者の人生も同じようにこのことを教訓にしてほしい。
小野田さんのサバイバル術はこのような中で伝えられたのだ。
小野田さんはとても長生きで91歳まで存命だった。
ルバング島から生還してから40年。
小野田さん自身の残りの人生は失われた29年を十分に挽回できるだけの輝きを持っただろうか。