くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

史上最悪と呼ばれた作戦 太平洋戦争インパールの地獄

 

終戦記念日も近いので、戦争中の様々なエピソードを整理しつつ 調べる日々が続いている。

私は戦後生まれたが、私の両親は戦時中の世代。

ほかならぬ父親は、志願をして旧日本陸軍に在籍していた。

新潟で訓練を受けた後、8月の17日か18日には南方戦線への配属が決まっていたらしい。

しかし8月15日の終戦を境に、状況は一変。

新潟から北海道の日本海側の故郷に戻るのにおよそ2週間かかったと聞く。

それは食料として生米のみを渡され、旅費も何もなく部隊参加の任を解かれたから。

この当時南方戦線では、史上最悪と呼ばれるインパール作戦の失敗も重なり、国民とりわけ陸軍等は疲弊の極に達していた。

目次

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起死回生の挽回を狙った作戦

インドインパールをめぐる攻防

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インド領内インパールを目指すための行軍

昭和19年の3月。

後にインパール作戦と呼ばれる陸軍の一大作戦が実行に移されることに。

当時、インド国内にあったインパールからイギリス軍が“中国革命軍蒋介石”の軍隊へ様々な軍事物資を送っている事は明らかだった。

これを阻止しなければ中国本土で戦う陸軍は苦戦に次ぐ苦戦を続け、終わることのない泥沼の戦線に陥っていたのだ。

中国国内での優位を保つためにはインドインパールからの補給をなんとしてもたたなければならない。

それが当時の最も望まれる作戦。

しかし、インパールはインドの中にあって 周りはジャングルで覆われ、しかも川などがあちこちにあって簡単に攻略できるような場所ではなかった。

もし、日本軍が作戦行動をするなら、隣の国ミャンマーから入るしかなかったのだ。

インパールまでの道のりは非常に厳しく、簡単なものではなかったのでなかなか作戦計画として立案されにくかった経緯がある。

そして、計画は早くから立案はされてはいたが、最初は補給がうまくいかないことが明確だったので却下されていた。

しかし、戦局も終戦間際になると、勝ち戦がほとんどなくなって、どこかで挽回する必要が陸軍内部でも声として上がってきた。

インパール作戦はそんな中で かつて却下されたにもかかわらず復活してきた作戦。

とにかく、補給がまともにはいかない事は当初から計算済み。

実はこの作戦の無謀なところはここからなのだが、食料その他の補給を現地調達する。

ありえないことだが、周りはジャングルで植物はいっぱい生えているからそれを食べればよかろうとのこと。

そして運搬は牛に引かせてその牛を後から食べようという、とてつもなくでたらめな方法。

これは蒙古のジンギスカンが行った方法。

当時もジンギスカン方法と名乗ったようだ。

はっきり言って笑い話の領域。

この方法は、現地で調達した牛が 湿地でしか活動できずに 山岳地では使い物にならなかったのだ。

早々に厳しい現実としてわかったようだ。

そうなれば、通常はトラックなどを使うべき重火器の運搬を人力で行うしかなかった。

全く道のないジャングルを大砲やそれに付随した部品を人間が押すのである。

想像を絶する厳しさだったと聞いている。

しかも食料はまともに与えられることもなく、周りの草を食べるなど言語道断。

およそ100,000人の将兵が参加したが約30,000人は死亡、およそ40,000人は病気か行方不明で脱落していった。

インパールへは3方向からアプローチしたらしいが、まともに到着できたのは1師団だけと聞いている。

他は到達できなかったのだ。

全体が揃わなければインパール攻略はままならず、結局のところは全軍引き上げるということに。

ここでさらに大問題が起こる。

最前線の兵士たちはやっとの思いで目的地まで行軍した後に、また元へ戻るのである。

疲労の限界を超えていたと聞いている。

別名白骨街道

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無謀な作戦と言われた 死亡者多数

インパール作戦は、行軍による失敗を 指し示す言葉として有名。

まともな戦闘行為などはあまりしていなかった。

多少なりともイギリス軍とはぶつかったのだが、それでも勝てるはずはなくイギリスインドの合同軍の死亡者のおよそ3倍近い人間が日本軍では死んでいる。

やはり、ジャングルでの行軍が作戦の失敗の全てだったのかもしれない。

厳しい行軍の中では日本兵はバタバタと病に倒れ、道端で死んでいったと聞く。

死んでいった者たちをお弔いするほどの元気もなく遺体はそのまま打ち捨てられた。 

熱帯のジャングルの中である。

遺体は直ちに腐敗が始まり、そして白骨と化していったのだ。

行軍の途中で道端にごろごろ転がる白骨。

これらの白骨があちこちに転がっていることを指して、この行軍の有り様を“白骨街道”と後世では呼ぶことになった。

おそらく、その時の様子は地獄絵図そのものだったに違いない。

日本軍のみならず、世界中の歴史から見て史上最悪の作戦と言われる所以。

作戦を立案し指揮した日本軍の将校がいた

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牟田口廉也 日本陸軍中将

彼個人を責めても始まらない。

インパール作戦の指揮をとったことでよく知られている。

戦後、軍事法廷で裁かれることもなくごく普通に余生を送っていた。

後年インパール作戦での不備を聞かれるたびに、“無能な部下たちのせいで”と盛んに弁解していたようだ。

このような発言を繰り返していたのでは責任を取らされてもやむを得まい。

日本陸軍の愚将として今も歴史に残っている 。

責任は彼だけが負えるものでもないだろう。

当時の陸軍は起死回生の現状を打破する大手柄が欲しかったのだ。

人の命がかかった作戦にそのような奇跡などあるはずもなく。

歴史に残った事実は厳しい現実のみを現代に伝える。

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映画でも取り上げられた作戦
 

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映画ビルマの竪琴 水島上等兵に扮した安井昌二

当時の日本陸軍の劣勢を描いた映画だが、何度かリメイクされるほどの名作と言われている。

日本軍は厳しい戦局の中 、兵隊たちが士気を高めるために歌を歌いながら作業する。

そのようなことに注目した内容の 元々は子供向けの原作だったと記憶する。

厳しい中でも歌うことによって敵味方といえども心を通い合わせることができると。

そのような物語だったと記憶。

最初の作品は1956年頃なので、インパール作戦から10年ちょっと経ったあたり。

記憶も生々しかっただろう。

あの当時、安井昌二と三國連太郎が主演していたと思う。

まとめ

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当時は軍に配属される前に盛大な送別会が開かれていた

日本全国でこのような送別会が開かれ海外の戦場へ送られたのだ。

無事に帰ったものもいるが、戦死したものも多数いる。

歴史の1ページとは言え、日本人にとっては負の遺産だろう。

私の父も、もし終戦記念日があともう少し遅かったならば、南方戦線に配属されたはず。

当時は、通信兵として訓練を受けていたようだ。

もし父が南方戦線で戦死するようなことがあれば、私は今この世にはいない。

わずか2〜3日の差で終戦だったと後から聞いている。

終戦後、自分の故郷に帰って来れたのは3人兄弟の中で自分が1番早かったと言っていた。

もちろん他にも弟は2人いて、全部で5人兄弟。

上から3人が軍隊に配属されたのだ。

しかし私の家系では戦死者がほとんど出なかったようだ。

少なくとも私の直系では戦死者は出ていない。

しかし私の父方、母方を詳しく調べていくと、中国の陸軍病院などで若くなくなった先祖もいるようだ。

この当時、全国至る所から出征しているが、おそらくかなりの数で死亡者が出ているものと思う。

いつも思うのだが私も含めた日本人全体がこの戦争の遺族だと考える。

自分の先祖を詳しく調べていけば、必ずと言っていい位、戦争に関わることで亡くなった人にぶつかる。

私が、ライフワークとして亡くなられた方へのお弔いの気持ちを込めたいのはここに理由がある。

終戦記念日が近い。

今年もまた、お弔いのために祈りを捧げたい。