今日は全国的に皇室行事のため、休みとなった人が多かったようだ。
私は突然の休みなので、市役所でいつもの仕事に駆り出されることに。
さて、実は今日はほかならぬ今の天皇陛下が即位を内外に発表する儀式の日。
今ならば普通に天皇や皇室について考えられて受け止められるのだが、ちょっと前までは自分なりの違和感があったことも否めない。
今日はそういった中で自分と天皇の関係について思うことを述べてみたい。
目次
雨の中行われた即位礼正殿の儀
今日行われた行事は、テレビの生中継もあって、とても興味深く見た人が多いのではないか。
普通はお目にかかることのない高御座。
これは通常は京都の御所に保管されている。
でも今回の行事に合わせて東京までわざわざ運んだ。
ちなみにこれは大正天皇の即位の時に使われたもの。
天皇陛下がお乗りになるものを高御座(たかみくら)
皇后陛下がお乗りになるのが御帳台(みちょうだい)
と呼ぶようだ。
もちろん実物など見た事はないが、その作りや格式から行って国宝クラスと言える。
儀式の時にしか使われない。
この儀式は内外に即位を宣言するもので、古式に則った装束を身に付ける。
天皇陛下は天皇にしか許されない直垂をつけて、皇后陛下を始めとして皇族の女性たちは皆、十二単を着用する。
男性の装束はともかく、女性の十二単は重さが15キロないし16キロもあると聞く。
身に付けているだけでかなりの体力を消耗するようだ。
この儀式は、天皇自身が自分の言葉で即位を宣言すること。
その全文を紹介してみたい。
さきに、日本国憲法及び皇室典範特例法の定めるところにより皇位を継承いたしました。ここに「即位礼正殿の儀」を行い、即位を内外に宣明いたします。
上皇陛下が30年以上にわたる 御 ご在位の間、常に国民の幸せと世界の平和を願われ、いかなる時も国民と苦楽を共にされながら、その 御 み心を御自身のお姿でお示しになってきたことに、改めて深く思いを致し、ここに、国民の幸せと世界の平和を常に願い、国民に寄り添いながら、憲法にのっとり、日本国及び日本国民統合の象徴としてのつとめを果たすことを誓います。
国民の 叡智 えいちとたゆみない努力によって、我が国が一層の発展を遂げ、国際社会の友好と平和、人類の福祉と繁栄に寄与することを切に希望いたします。
皇室が本来持っている誓願のようなものが述べられている。
そして、このことは日本国内の重要な役職についている人や、外国の要人たちも招かれて行われるのだ。
よく言われているのは、日本の皇室の格付けなのだが、世界でもナンバーワンといってもいいかもしれない。
特にアラブ系の国々では日本の皇室があるからこそ、日本と様々な取引ができると言い切っているぐらい。
これらの国々は日本の皇室を信頼しているだけではなく尊敬しているとも言っている。
どうしてこのような評価がなされるのか。
皇室は純粋に日本人の真心を表しているからだろう。
「国民の象徴」との言われ方をするが、そうであるならば国民そのものと言ってもいいわけだ。
還暦を過ぎた私には、その辺の意味するところが少しずつ理解できるようになってきている。
自分自身の中にある“最もよそに誇ることができる真心”が形として現れたのが“天皇”と言って良いのではないか。
今日の行事はそのような意味も含めて仕事場のテレビで拝見させていただいた。
宣言をすることの意味
国事行為としての宣言は必要不可欠なのだろう。
これは言ってみればケジメのようなものと解釈する。
皇室にとって天皇中心に物事は動いては行くが、天皇自身は基本的には神様と一緒に行動をする精神。
我々が見聞きするのは、テレビの前でにこやかに手を振る天皇陛下やその家族の姿になるが、実際に公開される事は稀だが、宮中行事は年間でかなりのウェイトを占めているのだ。
つまりそれは、神様への祈りの儀式と言えるだろう。
私たちの心の中は、科学的なものだけで出来上がっているわけではない。
科学からは大きく逸脱しているが、精神的な背景として神話の時代からのストーリーを連綿と継承している。
出発点は神話なのだ。
そこからの世界を自らの精神的背景として受け入れられるかどうかは個人の問題。
“非科学的なものは一切お断り”の精神では、これらの世界観を勉強するスタートラインにすら立てていないと言える。
これらの精神的背景も含めて内外に宣言したのだ。
象徴としての役割を考えてみると
“象徴”と言う言葉は意味深であると言える。
日本民族の象徴。昭和20年以降そのような言われ方をして天皇自身は自分自身が人間であることを宣言させられた。
もっとも生物学的に見れば当たり前のことで、普通の青年の男子女子である、そして子供も設けている。
自ら自害して果てた“三島由紀夫”などは昭和天皇の人間宣言を受け入れられないものとして非難していたが。
現人神と呼ばれる言い方は、祀りあげる方も祀られる方もかえってやりにくいのかもしれない 。
私が考えるに、象徴の意味は受け止め方の差だろうと思う。
神様として祀られるのならば絶対的な権力も当然持ち合わせるだろうし、それは様々な状況を考えるとむしろ現実から遊離しすぎているのかもしれない。
わざわざ人間である宣言をしなくても、日本人全体の心の統合した存在だと思えば、違和感なく受け入れられるのではないか。
象徴象徴と繰り返して言うが、これは真心と解釈すべきだと考える。
我々の最も誇るべき部分、納得できる部分をここに見いだすべきだと考える。
それゆえに、私たちの心を表現する象徴として、その代表として天皇の存在を定義すれば良いのではないか。
真心の1つの形なので、少なくとも他所から後ろ指をさされるようなことがあっては真心そのものに傷がつく。
皇室の人たちはそのような国民の中から湧き上がる気持ちを、どれだけきちんと受け止めることができるのか、そのことを本能的に学んで知っているようだ。
象徴とはそうした意味ではないだろうか。
3人称で考えない1人称の天皇
捉え方にもう一つ私なりの工夫がある。
天皇陛下はそのご家族も含めて私とは全く別な人格と言えるので、その関係を言い表せばそれは3人称と言えるだろう。
全く別の人たちなわけだ。
しかし象徴とか精神的なものを考慮すると、 別な人でありながらそれは自分自身の事でもあるので、1人称として考えなければならない。
つまり自分と他人の区別は、その心の中で問うならば同じものと言える。
私自身の受け止め方はこのようなものとなっている。
20歳前後の若い頃の私は、どちらかと言えば左系の人間だった。
天皇陛下などと尊称をつけて呼ぶこともなかったし、税金で食ってる人なんだろうくらいの暴力的な考えを持っていたと言える。
それが還暦を過ぎる前あたりから、自分自身の心の中の様々な受け止め方を考えたときに、自然と皇室のあり方とか自分自身の気持ちとか共通する部分があちこち見つかったことが挙げられるだろう。
最初に感じたのは、亡くなられた方へのお弔いの気持ちである。
かつて私が昭和天皇について書いたブログがある。
知っていたことも山ほどあったので、自分の感じたことも含めて公表した記事である。
どれだけの苦悩に満ちた人生を送ったかが、ここで自分なりに明らかにしてみせた。
日本人は国民全員が戦争犠牲者の遺族とも言うべき存在で、お弔いをどうしてもしなければならない責任があると考えている。
もっとも行動するかしないかは個人の勝手なので、強制するつもりもないし、またさまざまな人たちがいることも理解できている。
思うのだが、本当は知っておいたほうが絶対にその人のお得になるはずなのに、知らずに自ら拒否してしまう人たちはかえって損しているのではないか。
歴史や、様々な事実の確認をきちんと勉強してみて自分自身のこととして受け止める。
多分、人生の豊かさとはそうしたきちんと学ぶ心から発生すると私は思っている。
奇しくも今日、日がな一日行われた行事で、改めて自分自身の心とその心の表現する媒体が象徴天皇なのかなと考えるに至った次第。