どうしてもブログで取り上げたかった人物が、『三島由紀夫』
彼の思い出は私が中学3年、つまり昭和43年の頃にさかのぼる。
その時、私が好意を抱いていた同い年の女子生徒が、私に尋ねたのだ。
『三島由紀夫を知っている?』
『いや知らない』と私。
『すごくいいよ。読んでみたら』
実は、その時に少年だった私は、知らなかったことがとても恥だと感じた。
そこから始まるのだ。
目次
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市ヶ谷駐屯地立てこもり事件 昭和45年11月25日
この時、私は高校2年生。ニュースでこの事件を知ることに。
確か授業中だったのだが、この何時間か後に国語の時間があって先生が詳しく説明していた記憶が。
事情はよくはわからなかったが、彼は自衛隊員にクーデターを呼びかけた。
その理由も、“このままでは日本がダメになる”との認識から。
しかし、彼の呼びかけに応えるものはだれもいなかった。
むしろ何件か、心ないヤジなども飛んでいたと思う。
そして、呼びかけに誰も答えないと判断した三島は、そのまま総監室に戻り、この時は人質を取っていたのだが、人質は縛りつけたまま、自分自身は切腹して、そして同じように中に突入した他の隊員4人と共にいて、もう1人に介錯を頼んだようだ。
まず、自分自身がおもむろに切腹をして、頃合いを見て後ろを振り返り
『頼む!』と言ったそうな。
この時、介錯を頼まれた隊員は振り落とす刀を2度失敗している。
一撃で切り落とさなければならない首を、2度間違った後頭部に刃物を当ててしまって、3度目でやっと成功したような。
この様子は当時の週刊誌などでも克明に描かれていた。
驚くほどおぞましい事件で、あの天下の三島由紀夫がこんな非業な最期を遂げるなんて。
子供心に絶句した記憶が。
彼はいわゆる皇室崇拝。国粋主義者とも言えるかも。
日本の文化、とりわけ精神性をこよなく愛していて、そこから見出される美的感覚に無常のものを感じていた。
彼は、男子として日本人はこうあるべきと信じていた部分がある。
それはすなわち“武士道”
武士道を表した書物に“葉隠”があるが、
葉隠の冒頭にこうある。
『武士道とは死ぬことと見つけたり。』
45歳で亡くなった三島は、自分の死に場所を求めていたとも考えられる。
功なり名を遂げて、文壇では大成功していたのだが。
彼の美的感覚と実際の周りの状況との著しい差に、歯がゆい思いをしていたように見えた。
何とかして日本の本来の美しさを取り戻すためにと考えたようなのだが。
数奇な人生


三島由紀夫は19歳の時に可愛がっていた3歳年下の妹を腸チフスで失っている。
自分の妹ながら、恋人のように可愛がっていたようだ。
病気になった時も三島自身が、かいがいしく看病したと聞く。
しかし、看病の甲斐もなく妹はなくなってしまうのだ。
その時、三島は誰はばかることなく号泣していたと言う。
もともと感受性が強く多感な年頃だった三島にとって、自分の最愛の妹がこの世を去ることがどれほどの衝撃だったことか。
彼の死生観はこの頃にある程度の流れができたとも言える。
そして、様々な女性遍歴があることでも知られる。
昭和33年に21歳の大学生“瑶子”さんと結婚するまでに、何人もの女性と浮き名を流していた。
しかし、当の本人はいたって真面目で、調べた限りでは彼はやはり結婚してきちんと家庭を持ちたかったのだと推察できる。
上皇后美智子様とのお見合
昭和32年には、今の上皇后様 美智子様とお見合いを兼ねて食事をしている。
当時の週刊誌等の報告にそのような記述が見られるのだ。
また三島由紀夫の様々なことを知る私の知り合いからも、美智子様にプロポーズをして断られたそうなと。
うそか本当かはわからないが、どうやら親交があったことは間違いなさそうだ。
ただし、その時の1回こっきりだったと思うが。
翌年結婚した奥様は、12歳年下で現役の大学生だったのだが、結婚を機に大学を辞めて専業主婦として三島に付き添うことに。
2人のお子さんを設けたが、この奥様も実は58歳で亡くなっている。
彼女は家では家庭を切り盛りすることに集中して、表で活動する三島を献身的に支えたようだ。
彼は、文壇で第一人者として活躍した頃から、学生運動などにも時折顔を出していたようだ。
三島由紀夫のスタンスがよくわかる内容。
自分自身も異端児であることを自覚しているような発言。
彼のスタンスとしては“日本の文化を外国の侵略から守りたい”といったことのような内容かな?
何よりもこの当時の高度成長期の日本人の心のあり方に大きな疑問を抱いていたと思う。
それはいつしか自分自身の日本人に対する役目として自覚することとなり、ついには行動を起こすことになるのだ。
有名な“楯の会”はそうした三島の心情に傾注する若者たちを集めて作られた組織。
制服などを見ても、基本軍隊のようなもの。
ただし、姿かたちとは別にその目的とするところは日本の文化を正しく継承していくことにあったようだ。
三島由紀夫の様々なニュースを見ていると、彼自身はそれなりにサービス精神があって、自分自身のプライバシーも条件をつけずに公表していたフシが。
良いも悪いも全てが記録として残ってしまっている。
本人も多分に自分自身が、世の中の異端児であると自覚していたようだ。
好奇心を持ち続けることの大切さ


もともとは病弱な体つきだったと聞いている。
しかし、ある時自分の肉体改造を思い立って、ボディービルその他格闘技なども自分自身に課すことに。
強くなりたいと単純に推察しがちだが、三島由紀夫の本質は“ナルシスト”
どうすれば自分自身を美しく表現することができるのか、そのことを自分自身の体で体現しようとしていたようだ。
様々な挑戦をしているが、ボクシングなどは大学のボクシングクラブにお世話になったと聞いている。
様々な肉体へのトレーニングを行ううちに、体は鋼のように引き締まり、またそういった自分自身のビジュアルを写真として世の中に問うことも。
ちなみにこの日本刀を構えた写真は“篠山紀信氏”の作品。
彼のストイックさがよく表現できている。
三島由紀夫を運命学で分析する


三島由紀夫は1925年生まれで1970年に亡くなったので、享年45歳。
運命学で彼のことを勉強する機会があった。
彼は占星術で言うところの『横変子の因縁』を持っている。
つまり、運命学的に見て彼は、“自殺”、“他殺”、“事故死”このどれかの死を免れない。
必ずこういった死に方を運命づけられていたようだ。
しかし、このことを勉強させてもらったときに、
“彼は自殺したのだから、自分自身の生き死にを自分で決めたのではないか”
と疑問に思ったのだ。
運命学の先生は私にこう言われた。
『彼は自分の生き死にを自分で決めたわけではないだろう。』
『彼はあのような生き方しか選べなかったのだ。』
『数年前から楯の会を始め、日本の武士道の死生観にも傾注していたようだ。』
『その流れを汲んで、彼はあのような結果に導かれてしまっただけなのだ。』
運命学の勉強を始めたのは私が30歳になる直前。
もう35〜6年は学んでいるのだが、このときの説明は未だに忘れられないものとなる。
『自分自身の生き死にを決められるのは聖者だけだよ。』
その言葉もいまだに重く心に残る。
聖者でない者は自分自身の生き方、死に方を選べない
今ならばなるほどと思える事実。
まとめ
様々な著名な芸能人とも交流があった三島由紀夫。
調べていてわかったことが1つ。
実は彼は身長163センチ。
はっきり言ってこの当時でも小柄な男性だったのだ。
親交のあった石原慎太郎等は身長170センチを軽く超えるイケメンだったので、ある意味、嫉妬心のようなものを抱いていたのかもしれない。
また、彼自身の死生観から、彼はゲイだったのかもと言われたことがあったが。
様々な記録を見てみるとたぶんそれはないと言える。
このニュースはアメリカで評判になったもの。
ゲイであることを隠すために偽装結婚をしたとのつまらないニュースが流れたようだ。
彼の結婚相手は亡くなった妹さんと極めてよく似ていたから。
三島由紀夫の女性の好みは丸顔で可愛らしいこと。
奥様はその雰囲気にぴったり。
そしてこの奥様と知り合うまでに何度か失恋をし、またプロポーズなどもしていた記録が残っている。
きちんと家庭を持ちたかったことがうかがえるのだ。
日本の文壇の中では、とにかく大きな存在であったことは間違いがない。
もし、生きて活動を続けていたならばノーベル賞受賞もあったような気がする。
彼の名声は、日本国内だけではなかったので。
しかしどれだけの優れた才能も、彼の持ち合わせた運命には抗いようがなかったのかも。
昭和45年の衝撃的な事件以降、三島由紀夫は伝説となった。