今日は三島由紀夫の命日。
1970年、市ヶ谷の駐屯地で彼は非業の死を遂げた。
私の世代の人間にとって彼はカリスマだったかも。
すでに、様々な考察がなされてきたとは思うが、しかし、考えれば考えるほど興味の湧いてくる自分は、間違いなくあの時代の生き残りなんだと思い知らされる。
過去にも三島由紀夫をこのブログで取り上げたことが。
私にとっても青春の1ページであることには違いないので、我ながらしつこいと思いつつ、もう一度振り返ってみたい。
目次
三島由紀夫の生い立ち
今回改めて調べ直してみるとさらにわかったことがいくつか。
三島由紀夫は本名ではない
三島から見上げた富士山の頂に雪が乗っかっている状況を知り合いからペンネームに勧められた。
平岡公威(ひらおか きみたけ) こちらが本名。
当時は本名で文壇にデビューする事はリスクが大きいと判断されたようだ。
生い立ちを見てみるとかなり数奇な運命だったことがよくわかる。
三島は母親が20歳の時の子供。
しかし、まだ祖母が健在で12歳までは祖母につきっきりで育てられたと聞く。
つまり、母親がいながらも母親から離されておばあちゃんに育てられた。
母親とおばあちゃんには軋轢があったと聞いている。
少年時代を屈折した人間関係の中で過ごした三島は控えめでおとなしく、さらに病弱だったようだ。
子供の頃から本を読んだり文字を書いたりすることを趣味にしていた。
そして文章を書いて真っ先に見せるのは母親だったと聞いている。
そして様々な批評を受けるのだが、想像するに母親の好みの文体になった事は否めないだろう。
三島の後年の作品は耽美主義とも言われるほど文章の巧みな装飾は評価が高い。
当時の日本ではノーベル文学賞に一番近い作家とも言われた。
もっとも、最初のノーベル文学賞は師匠の川端康成に持っていかれてしまったが。
彼の作品は個人的な経験に基づいていることが多いはず。
特に3歳年下の妹を病気で亡くした事は彼の人生に大きな影響を与えたとされる。
彼女は腸チフスにかかって17歳で若い命を散らした。
妹を恋人のように可愛がっていた三島は声を上げて泣いたと伝わる。
ちょうど1年ほど前に三島由紀夫を題材に自分のブログを更新しているが、その時のエピソードでもこのことに触れている。
この時もかなり調べてみたが、私の個人的な記憶に頼ったことが大きいはず。
私の世代で少しでも人となりの人生を考えた人間なら、彼のことを素通りする人はいないはず。
今回は昨日のテレビの番組で特集されていたので、何気なく見たところがどうしても素通りできない自分を思い知らされる。
三島由紀夫は45歳の若さで自ら命を断った。
今の私よりも20年以上若い。
にもかかわらず私の人生では今でも大先輩の位置づけとしての地位は揺るがない。
彼は学習院を首席で卒業した後東大に合格。
文学部ではなく法学部に入ったのは父の勧めが強かったからかも。
子供の頃から小柄な少年で認知されていたが、とにかく頭の切れることにかけては誰も叶わなかったような。
学生運動と三島由紀夫
この頃の三島はすでに軍国主義者とか右傾とか様々なことが言われていた。
作家でありながら、様々なメディアでは三島由紀夫が当時の著名人ナンバーワンの称号を得ている。
ちなみに私が中学校から高校にかけての時代だが、私は友達に指摘されるまで彼の存在を知らなかった。
友達は私に三島の小説を単純に進めるだけの話しかけだったが、知らなかったことを指摘された私は非常に恥だと感じたもの。
そんな有名人をなぜ知らなかったのだろうかと、今でも不思議に振り返ってみる。
すでにこの頃は、彼自身が俳優として出演していた映画なども発表されていたわけだし、彼自身の肉体改造も週刊誌などで盛んに紹介されていたと思う。
また、調べてみるとこの頃から警察や自衛隊に注目し始め、自衛隊に体験入隊もするように。
彼は日本人であることを痛烈に自覚していた。
そして日本人に殉ずるつもりで生きていたようだ 。
楯の会
有名な楯の会は三島が私設で儲けた 軍隊組織と言える。
目的は日本の精神文化を守るため。
彼は日本の現状を激しく憂いていたようだ。
そして彼が行ったのは志を同じくする仲間を集めること、と同時に仮想の敵を作ること。
三島にとって敵対勢力となったのは共産主義だったようだ。
この当時の世の中は学生運動が示す通り、あらかたの人は左傾化していたように思う。
私もこの当時はまだ学生になるかならないかくらいだったが、どちらかと言えば左寄りだったような気もしないではない。
そして三島由紀夫が何よりもシステムとして重んじたのは天皇を中心とした日本の社会のあり方。
精神的な中心として天皇を稼ぎ出すことが最も日本にはふさわしいと考えていた。
楯の会はそのような三島由紀夫のポリシーを具現化した存在とも言える。
この当時三島由紀夫に共感して集まった若者はおよそ100名。
一人ひとりに、わざわざ有名デパートで採寸をして夏服それぞれの制服と帽子を作って与えている。
1人10万円では上がらなかった可能性が高い。
オリジナルのオーダーメイドのきちんとした制服を100人分である。
すでに、お金に困る生活はしていなかったと見える。
市ヶ谷駐屯地事件
1970年当時、三島の影響はこの市ヶ谷駐屯地でもほとんど顔パスで出入りできていたようだ。
事件は11月25日突然起こる。
ただし、三島は入念に下準備をして、様々な根回しをして失敗したことも当然視野に入れながら計画を実行に移した。
それは最後は自ら腹を切って死ぬことも筋書きの中に加えられていたようだ。
この2人は当時の事件を知る語り部。
その後の人生も大きく変わったのではと推察する。
特に右側のサンデー毎日の記者は三島由紀夫と個人的に親交があって信頼されていたようだ。
もし計画が失敗したときのことを考えると、日本の役人たちは事件の全容を世の中に隠す恐れがあると三島はひどく恐れていたらしい。
そのために全文をこの記者に託して、事件の後、一字一句漏らさず発表して欲しいと。
事件の前にこれだけのやりとりがあって当日の事件は起こった。
自衛隊の長官室に立てこもって、クーデターを企てる。
当然のことながら周りからどやどやと自衛官がやってくる。
その時三島由紀夫は日本刀を振り回して防いだようだ。
ただし、相手を殺す意図はなかったと誰もが口を揃えて言っている。
何人かは切り付けられているのだが。
三島由紀夫がバルコニーで必死で呼びかけてはみたものの、誰も答えるものはいなかった。
少なくとも時代は革命を求めてはいなかった。
日本人が代々受け継いできた精神性をどうしても守りたかった三島にとっては、当時の昭和天皇も激しい批判の対象にしている。
戦後GHQによって画策された人間宣言を激しい口調で断罪しているのだ。
なぜ人間だなどと言ってしまったのか
なぜ神のままでいてくれなかったのかと。
三島由紀夫にとってはシステムとして生き神が必要だったと思われる。
その崇高な存在をもとに、日本人は心置きなくまとまることができると信じて疑わなかった。
しかし、どう考えてみたところで、昭和天皇はやはり人間でしかなかったのだ。
彼自身が死ぬまで抱き続けてきた苦悩を考察した私のブログがある。
実はこのブログは以前作ったものをリライトしたもの。
私にとっては永遠に答えの出ない問題だと思っているので。
ここで三島由紀夫が抱いた失望感がいかほどのものだったのか。
さて、様々な謎を残してすでに50年が経過している。
この事件を考えれば考えるほど真実に近づきながら何故か遠い世界に進んでしまっている自分を感じるのは正しいことなのだろうか。
三島由紀夫の純粋さを私は多分心から支持している。
だが、今の私ならわかってはいても決して行動になど起こさない。
45歳の若さだったからこんなことができたんだろうか。
彼が抱いていた危機感は思うにうやむやになったまま今に至っているような気がする。
日本人が本来先祖から代々受け継いできた情念のような魂のような形のないもの。
一体どれだけの人がそんなことを意識するのだろう。