たまたまテレビで見かけた彼女の特集番組。
私が20歳の頃のよく聞いていた歌手と言えば、加藤登紀子をあげる。
私が20歳になった頃は、もうすでに学生運動はすっかりなりを潜めて皆おとなしい学生ばかりだったが、しかしその10年前と言うとちょうど学生運動が華やかなりし頃。
加藤登紀子は私の10歳年上で学生運動のデモにも参加したと。
そして、彼女は中国のハルピン生まれで3歳の頃に日本に引き上げてきたと聞いている。
さらに、なんと彼女は東大卒である。
学生の頃、商品として与えられるヨーロッパ旅行につられてシャンソンコンクールに応募したのだそう。
2度目の挑戦で優勝の栄冠を勝ちとる。
それ以来、日本のシャンソン歌手コンクール優勝との肩書きは持ちながらも、実際は歌謡曲の歌手として長く活躍してきた。
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彼女を語るときに絶対に外せないのが獄中結婚
夫藤本敏雄は学生運動の時に検挙された後、服役している。
その夫に宛てて書いた歌がこちら
本人はあまりにも個人的な内容なので曲として発表するかどうか一旦は迷ったんだそうだ。
当然のことながら自分の夫になる人を想って歌った歌。
夫が語ってくれたことをもとに作ったと言っていた。
実は、この当時の大学生や一人暮らしをしている様々な人たちはこの歌を愛唱歌にしていたかも。
私自身も何度か歌った記憶が。
歌手として活躍していた加藤の所へステージでの出演依頼をしに来たのが、夫となる藤本敏雄。
その誘いに応じて付き合いが始まったのが2人のきっかけとなる。
様々な逸話が残されているが、2人ともお酒好きなんだそう。
そういった中で意気投合して、やがて結婚することになるのだが残念ながら夫は、“凶器準備集合罪”を問われ、実刑判決を受けた後2年間服役している。
加藤との結婚はちょうどその時にあたるのだ。
実は、このことは私はニュースで知ったのだが、ちょうど私が19歳の時、関東近郊の大学に通い始めた頃、夜のニュースで見かけたと思った。
ちょうど青春真っ只中の私はかなり衝撃を受けたと記憶。
とにかく、有名な芸能人がこれだけ思い切った行動をしちゃうんだと。
よほど自分自身のポリシーがしっかりしていなければ、とてもできる行動ではない。
この当時、世の中の人たちの生き方は多様なものがあったと記憶する。
端から見てかっこよく映ったのはなんといっても自分自身の生き方を貫いている人。
そのような人は今もそうだが、いそうでいないのが現実だろう。
加藤登紀子はその生き方をまさに貫いた人と言える。
思い出の歌をいくつか
加藤登紀子は歌手になってから最初の数年間は鳴かず飛ばずでほとんど売れなかったのだ。
シャンソン歌手との触れ込みももちろんあったが、基本的には普通に歌謡曲の歌手である。
そのほとんどはシンガーソングライターとして自分でこしらえたものが圧倒的に多いが、いくつか私が好きだったものをあげてみたい。
多分、彼女の中では一番のヒット曲かも。
この曲は日本だけでなく世界中で誰もが聞いていたと思った。
多分、私の中ではこの曲が1番好きかも。
加藤登紀子がシャンソン歌手としてその実力を遺憾なく発揮した歌いっぷり。
この曲が宮崎駿の紅の豚の中で歌われていたのを知っているだろうか。
私は、誰かフランスの著名な歌手が歌っているんだろうなと映画を見ながら思っていたが、なんと加藤登紀子本人の歌唱。
昔好きだったものは、姿かたちがちょっとぐらい変わってもその本質で伝わってくるものが。
やっぱり加藤登紀子は本物だよなと改めて確認した次第で。
加藤登紀子的生き方
この2人は妻である加藤登紀子の方がわずかに年上、ほんの1ヵ月位。
基本、学年も同じなので、同い年と言っていいだろう。
夫の藤本敏雄は服役して出獄した後、自らの農業を立ち上げて、無農薬の野菜作りの事業を始めた。
詳しい事は知らないが、最初から事業として軌道に乗るはずもなく、その生活は主に加藤登紀子が支えていたと思われる。
この2人は獄中結婚した時の子供を含めて3人の子供を儲けた。
全員が女の子と聞いている。
確か2番目位の娘さんが同じ歌手として活躍しているようだ。
加藤登紀子の様々なインタビュー番組は昔から色々と作られてきてその都度拝見させてもらったが、夫婦関係は必ずしも順風満帆なものでもなかったようだ。
夫の藤本は自分自身の生き方に強いこだわりがあったらしく、加藤に歌手を止めて自分と一緒に百姓をやって暮らそうと、申し入れをしていたようだ。
しかし、加藤自身は自分自身の歌手活動を停止することにはならず、夫の意にそぐわないことを常に気にしながら、コンサートその他をこなしていたと聞いている。
その時味わったさまざまな苦しみは、自分たちはもう夫婦としてはダメなのかもしれないとそう考えたこともあったそうな。
しかし、縁は2人の結びつきを切り離すことにはならなかったのだ。
かなり有名な2人ではあったが、世の中のニュースを賑わすような事はあの投獄の時以来はそんなにはなかったのかも。
しかし別れは思いがけない形でやってきたのだ。
ガンに犯された藤本は治療の甲斐もむなしくみまかることに。
夫藤本の最後の言葉が、
『もういいだろう 』 そう言ったと聞いている。
そのことについて加藤登紀子がテレビのインタビューで答えていた。
世の中には何度も離婚をする運命の人もいる中で、私は限られた時間ではあったが1人の男に妻として寄り添うことができた。
自分の運命としてその事は誇りに思いたいと。
自分自身の生き方を貫き通した加藤登紀子らしい言葉だと言えるだろう。
まとめ
私の記憶の中で加藤登紀子との思い出がある。
昭和60年の2月のことだったと思うが、ちょうどお昼頃、千歳空港のとあるレストランで加藤登紀子の隣に座った。
実は、この時レストランは驚くほど混んでいてどの店も満杯で、たまたま入った店に空きがありそうだったので友達数人と入ったのだが、なんとたまたま空いていた席が加藤登紀子ご夫婦が座っていた席。
お辞儀をして相席をさせてもらったが、加藤登紀子のはす向かいに夫の藤本が座っていて、確かうどんのようなものをすすっていたと記憶。
流れの中で私が座ったのは加藤登紀子のちょうど真横。
その時の記憶では驚くほど小柄で小さな人なんだと認識。
私は後にも先にも有名人と呼べる人で近くに居合わせたのは加藤登紀子しかいない。
ずいぶん昔の話になるが、懐かしい思い出ではある。