今度の大河ドラマは何かにつけて注目が集まる。
そんな中で、日本の歴史の中でもトップクラスと言えるクーデターが本能寺の変
今回のドラマはこの辺を中心に描かれるわけだ。
歴史的な事実と言いながらも、新たにいろんなことがわかってきているので、かつて常識的に思われてきた事はどうやら通用しない。
テレビ人間の私は様々な番組を見て最新研究の報告なるものもチェック。
さて、今度の大河ドラマ、この決定的な歴史的な事件をどう捉えるんだろう?
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目次
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明智光秀と織田信長


日本の戦国時代を考えて、最大の事件と同時に1番の謎とされるのがこの2人の関係。
“織田信長”の家臣の中でも“明智光秀”は別格の扱いを受けていた。
それは光秀自身が田舎の地方侍ではなく、公家衆や室町幕府とも深いつながりを持った知識人としての優れた資質は誰もが認めるところ。
織田信長がたくさんいる家来の中から最も重用したのは 光秀と秀吉。
特に織田家の格式ある部分はこの光秀がすべてになっていたと言って良いだろう。
世間一般では、私の記憶の中でも本能寺の変での明智光秀の謀反は、信長に対する恨みが原因と学んできた気がする。
信長は光秀を重く用いていながら、何かにつけてケチをつけていたのも事実。
大勢の前で光秀を罵倒したり、また暴力を振るうことなどもときにはあったと聞く。
このせいで、恨みが募って謀反を企てたと私は学んできたと思う。
しかし、最新の研究ではどうやらその辺の裏付けは誰もが口を揃えて違うと言い切る!
光秀は信長がけなすような貧相な武士ではない。
世間で知られている肖像画をきちんと復元するとかなりのイケメン。
本能寺の変の様々な 理由付けの中では、行き当たりばったりの行動ではなかった事はどうやら明らか。
様々な文献を見ても、光秀はあらかじめきちんとした計画を立て、そのチャンスをうかがっていた節がある。
その理由を考察する特集番組が昨日の特番で放送されていたのだ。
複数の歴史学者が、それぞれに意見を戦わせて真相に迫る番組の作り方は2時間があっという間に感じられるほどの内容の濃いもの。
そして歴史学の様々な研究成果はここ2 〜3年の間でも驚くほど進化していて、すでに本来の歴史が書き換えられつつあると言っても過言ではない。
明智光秀と羽柴秀吉


織田信長の家来の中でもこの2人が優秀な事はすでに明らかなこと。
2人に共通の特徴として、人との折衝が驚くほどたけていたことが挙げられる。
よく知られるところでは秀吉が誰もが認める人たらしだったこと。
相手の懐に飛び込んで信用させる。
その能力は他の誰も真似できなかったようだ。
それに対して光秀は、秀吉とはまた違った意味で相手方との折衝が極めて巧みだった。
光秀の特徴は武士でありながらもその豊富な識見にある 。
要するに粗暴な荒くれ男では無かったのだ。
相手が思わず認めてしまう穏やかでそれでいて説得力のある語り口。
何よりも他の誰よりも博識だったことが挙げられるだろう。
信長と出会う前は一介の浪人に過ぎなかったと言われているが、最近の研究でそうではないとされる。
足利幕府の中でもその名前は上がってきており、光秀は、どうやら当時足利幕府が懇意にしていた朝倉家に出入りしていた武将とされる。
信長に出会う前にそのような記述が残されているのだ。
そして以前私が書いたブログの中で光秀の出自に関しても調べてみた。
これは次に放送される大河ドラマに特化して調べてみたが。
光秀と秀吉に関して付け加えれば、信長によってこの2人は競い合わされた感がある。
信長は自分の家臣を用いるときに、競争させるような手腕をよくとっていた。
光秀と秀吉は信長の家臣の中でも、1番か2番かを競い合っていたと言える。
信長の目論見
織田信長が本能寺の変で亡くなったのが49歳。
今考えればかなり若い年齢だ。
しかし、これだけの若さでいても既にその年には息子の信忠に家督を譲っている。
つまり、主な権力は息子にゆだねて自分自身はある程度身軽に動けるように画策していた。
信長はどうやら最高権力者としての自分自身の格付けにこだわっていたようだ。
天皇家に対しても、
- 太政大臣
- 関白
- 征夷大将軍
この3つのうちのどれかを自分に与えるように圧力をかけていたようだ。
そして日本の国土は全て自分の所有物として、様々な点在したそれぞれの国は自分自身が許可をして与えたものだとそう定義した。
自分が気に入らなくなれば、いつでも改易と言って領土を取り上げてしまう。
国替えと言って領土の持ち場を変えたりすることもしょっちゅう。
様々な立場の学者が信長の研究をしているが 、織田信長はサイコパスの評価も所々で聞こえてくる。
信長は、歴史の様々な事実から見ても人としての心の温かさとか他人へのいたわりが驚くほど希薄な武将かもしれない。
まれに見るほどの合理的な精神の持ち主だが、何をやるにつけても容赦しないのだ。
他者に対するいたわりに欠ける。
どうやら信長の大きな特徴だったと言える。
そのせいで、光秀は自分自身が所領としていた丹波の国を改易され、まだ敵国の状態だった中国地方に国替えを命じられた。
そのことが直接のきっかけになったとは言い難いが、光秀にとってはある意味寝耳に水だったのかも。
織田信長に対する光秀の過去の実績を考えても、国替え等は光秀自身にはありえないことと思っていた節がある。
光秀自身もおそらく意外だっただろう。
考察 本能寺の変
実はこの地図の中に本能寺の変を考察するのに重要な情報が含まれている。
この当時織田信長は天下を取るつもりで行動していたようだが、実は彼らが意識している天下は日本全国の意味ではなかったようだ。
この京都を中心とした限定された範囲を天下と呼んでいて 、この部分をまとめあげることができたなら、それで日本統一が成し遂げられると考えていたようだ。
既に京都を中心とした中心部は信長が平定していたようだ。
この時の信長の中心的な兵力は明智光秀が所有している兵力と一致する。
つまり信長にとって側近中の側近が光秀であること。
信長は天下を平定するための様々な策謀を巡らしていたが、四国に対してもどうやら行動を起こしそうになっている。
四国は地図で見てわかるように長曽我部家と三好家がその覇権を争っていた。
この時に信長は、最初は光秀に対して長曽我部家を説得して家来に着くように申し付けしていた。
そして光秀は持ち味を遺憾なく発揮して長曽我部家を説得することに成功。
しかし、信長は何度も手のひら返しをする。
最初に約束したことを何度か反故にして、結局のところは長曽我部家を滅ぼすことに決定するのだ。
光秀が今までさんざん苦労して折衝してきたものが全て無になってしまう。
また、この時、長曽我部家と反目していた三好家は秀吉と内通していたようだ。
信長の家臣でありながら、秀吉も光秀も敵対する形で外交攻略を進めていたのだ。
そして長曽我部を滅ぼすために織田信孝と丹羽長秀が四国に向かって出兵しようとする
その日の早朝に本能寺の変は起きている。
自分自身の坂本城を中国地方に向かって出陣すると見せかけ、光秀は一万3千の大群を京都に向けた。
表通りを通ったので、人目につくことが何よりも危惧されたのだが、もし誰かに見られたならばその見た者を即座に殺せとの命令が出ていたらしい。
本能寺の変を考察をする番組だったが、何人かいる歴史学者のほとんどがこの四国への出征が明智光秀の信長への謀反の直接のきっかけになったと納得していた。
実は歴史的には、この辺のところはあまり大きく取り上げられた事はなさそうだ。
本能寺の変の後
本能寺の変で織田信長が自害した事はよく知られているが、実は信長の遺体は見つかっていない。
当時の作戦行動としては必ずしも全面的に成功とは言えなかった。
光秀の目論見としては信長の首を衆知の前に晒す必要があったのだ。
それができなかったので、本能寺の変の後、味方をしてくれそうな武将たちに盛んに手紙を書いている。
その中でも、細川家に対する手紙が1番切実だっただろう。
実は細川家では信長が亡き後は光秀に加担することなく喪に服すると称して親子共々出家して誰とも手を組むことをしなかった。
光秀は盛んに手紙を書いて味方になってくれるように頼んだようだが、動く事はなかったのだ。
そして本能寺の変の十日後には秀吉が中国地方から大返しで京都に戻ってきている。
このことについても歴史学者たちが盛んに意見を述べていた。
連絡を受けてから京都に戻るまでの決断の素早さが、豊臣秀吉の危機管理の凄さの象徴だと。
もし本能寺の変が誤報だったとすれば、秀吉は謀反人の汚名を着ることに。
しかし、秀吉は光秀が謀反を起こすことをあらかじめ想定していたと歴史学者たちは皆口を揃えて言っていた。
光秀自身も、信長を打つ事は間違いなく成功すると思っていただろうが、その後は大仕事が待っていると心の中では心配だったに違いない。
味方になる武将を見つけなければ、秀吉を始め残された同じ信長の家臣たちが自分に襲いかかってくることが容易に想像できたから。
光秀の危惧は現実のものとなってしまう。
山崎の戦いで秀吉に完膚なきまでに叩きのめされる。
歴史学者の様々な意見としては、仮に信長がいなくなったとしても、この時代東にも西にもまだ有力な武将たちが存在していたのだ。
誰がどのように抜きん出て天下を取るのかはっきりとは見通せなかったと言われている。
我々が知っているのは歴史にある通り。
この後、秀吉が信長の後を継ぐ形で天下を平定し、その後事業は家康に引き継がれることに。
今回の大河ドラマ麒麟がくるは本能寺の変の直後まで描かれると思うが、これらの最新の研究成果をどのように反映させるのだろうか。
今まで本能寺の変は散々ドラマの中でも描かれてきたが、どれもが皆、光秀の個人的な怨恨説に則って描かれてきた。
どうやらそれは、今では本流と言える考え方ではなくなってきている。
歴史学者の意見。
“そんな単純なことではありません”
次に始まるドラマに大いに期待したい。