今日から始まった新しい朝ドラ“スカーレット”
信楽焼の陶芸家の設定で始まったが、以前から言われていたのはモデルが存在すること。
そのモデルとなった方が信楽焼陶工の“神山清子”(こうやま きよこ)さん
その道では知る人ぞ知る重鎮。
1936年生まれなので、現在83歳。
まだご健在で元気に活動されている。
目次
生い立ちは?
彼女は一家全員九州の出身。佐賀県の佐世保とのこと。 旧姓 “金場”
“金”の文字が朝鮮人に似ていると言うことで、朝鮮人によく間違えられたらしい。
父親がそこの炭鉱で働いており、そのせいで朝鮮人労働者も多くいて、彼女は子供の頃、朝鮮人と間違えられてよくいじめられたと聞く。
小さい頃はよくいじめられるので、地面に絵を書いて1人で遊んでいたらしい。
戦前、九州の炭鉱ではあまりの仕事の厳しさに朝鮮人たちが夜逃げするような事態が起こった。
清子の父親はその朝鮮人の逃亡の手助けをして警察に捕まってしまうことも。
結局、九州にはいられなくなって、その土地を逃げ出すことに。
逃げている時は助けた朝鮮人が、逆にかくまってくれて滋賀県まで逃げ伸びたようだ。
信楽の陶芸の街に住み着いた一家は、陶芸に関わる仕事を始めたが、あまりうまくいく事はなく、山から薪を切り出しては陶芸家に売って生計を立てていたようだ。
清子は、中学を出た後は親の勧めもあって和裁や洋裁などの学校に通ったらしい。
しかし10代の頃から絵を描きたい希望を持っていた清子はあちこち仕事を転々とした後、信楽に戻って陶芸の会社に就職することに。
そこで絵付けの技術を学び、給料をもらいながらも、絵付けに関してはかなりの腕前に達していたようだ。
ただし、実家にいて会社勤めをしていても父親は極めて封建的で、なけなしの給料も全て取り上げられたと聞く。
しかしそんな中で21歳の時、会社の同僚で陶芸を目指していた男性と結婚をすることに。
その結婚相手が“神山易久氏”である。
父親に反対されての結婚だったが、夫が婿入りすることで父親の了解を取り付けている。
実際は婿入りではなく、清子が神山姓を名乗り、同居することで決着がついている。
給料が安かったことで、生活はいつも逼迫しており清子は夜12時 1時でもアルバイトをしていたようだ。
陶芸家である夫は、ある程度の人気が出たこともあって、弟子なども取り始めて活動するように。
実は、この辺がある意味本当の不幸の始まりで、夫は不倫のあげく、交通事故を起こして不祥事が村全体に知れ渡ってしまうのだ。
清子は夫の不倫は目をつぶるつもりでいたようだが、成り行き上、清子だけがはじき出される格好になって、1人で暮らさなければいけないようになった。
かなり苦しんだようで、自殺未遂なども起こしたと記述にはあった。
清子は父親のこともそうだが、どうやらあまり男運が良くないようだ。
男と関わるたびに苦労を背負う羽目になっている。
清子は、子供が2人いて、息子が清子と競い合うように陶芸家として活動するように。
母親をライバルのように考えていた息子は、それでも離婚などのときには母親の味方をして、数少ない清子の苦労の理解者と言える。
神山清子の一生の中で、とても重大なことだが、
この息子が29歳になった時に白血病を発症して31歳でなくなってしまうのだ。
清子が54歳、56歳の時である。
その時から骨髄バンクの必要性を世の中に訴える活動を始めたのだ。
現在も滋賀県の骨髄バンクの啓蒙のための活動の会長をしていると聞く。
それは息子が亡くなった後も、白血病のことで清子に様々な質問や、相談が持ち込まれたから。
苦労して始めた陶芸だが、彼女の1番の功績として自然釉を復活させたこと。
ある時、たまたま古い窯で発見した、
昔ながらの信楽焼は釉薬を使わずに土そのものが溶けて出てきた風合いが、独特の美しさを表していた。
彼女はその技術を現代に蘇らせたことでよく知られる。
失敗に次ぐ失敗で借金もかさみ、八方塞がりになってしまった頃、本来1週間ほどで釜焼きは終了するのだが、それをやけくそで、16日間続けて焼き続けたところ、首尾よく成功したのだ。
そのことで神山清子の知名度は一気に広まっていく。
陶芸家として


彼女の作品を見てみると、驚くほど無骨で荒々しい感じを受ける。
しかし自然釉の独特の味わいは、作品に温かみを与え、そこから優雅な存在感を醸し出す。
彼女は、普段家庭で使えるような皿などを制作している。
普段使いができるものを目指したようだ。
様々な展覧会でも作品は数多く展示され、調べてみるとネットでも購入できるようだ。
それほど高くない値段で手に入りそうなものも。
アマゾンでも楽天でも興味のある方は調べてみるとヒットするはず。
家庭的にはどうだったんだろう


彼女は、家庭的にはあまり幸せな境遇ではなかったと思う。
小さい頃は屈託なく明るく育ったかもしれないが、封建的な父親は彼女を自分流の考えに当てはめようとして、彼女の希望などにあまり目を向けなかったと言える。
そして恋愛結婚のはずだったが、夫には裏切られるのだ。
そしてこともあろうに、彼女は驚くほどの貧乏くじを引いてしまう。
彼女が夫と2人で苦労して作った自分たちの窯を去る形で、離婚をしなければいけなかった。
周りの夫の愛人や夫の弟子たちは体裁良く立ち回って彼女の味方にはなってくれなかったのだ。
そして、息子が彼女と同じ陶芸家を目指したが、志半ばで白血病で倒れることに。
息子の最後の言葉は、
「お母さんはもう自分のために生きて欲しい。」
清子がどのくらい苦労してきたかがこの言葉でよく理解できる。
清子は息子の死を乗り越えて、さらに創作活動に邁進するのだ。
まとめ


神山清子の半生はまさに波瀾万丈である。
彼女の反省を題材にした映画が封切られている。
“火火(ひび) ”この映画は女優高橋恵子のご主人高橋伴明の作品 。
主役を演じたのは田中裕子。
この他に彼女の半生をもとに小説も書かれている。
興味のある方は一読するのも良いだろう。
調べてみた限りでは彼女は日本の文化を代表する1人と言えるはず。
日本には様々な芸術家がいるが、陶芸家の世界では、彼女は女性としてまさに草分けなのだ。
彼女が陶芸家を目指した頃、その世界は男尊女卑の極みだった。
“女性が入ると窯が汚れる”と言って極度に嫌われたのだ。
そのような中で困難や迫害に耐えて彼女は今日の成功を得ている。
なつぞらで描かれた奥山玲子も大変な先駆者には違いないが、その彼女に勝るとも劣らない優れた芸術家だと改めて教えられる。
さて陶芸家の彼女はたくさんの作品を発表しているので、最後に思う事は実物をとにかく見てみたい。
私のささやかな希望が許されるのならば、優れた作品をこの手に取って実際に触れてみたいのだ。