大河ドラマの麒麟がくるが放送を一旦中止している今、歴史について様々な検証番組が放送されている。
どれも皆興味深いのだが、なんといっても明智光秀が起こした本能寺の変に関わる考察はどうしても見逃すわけにはいかない。
今日、先ほど観させてもらったのは脳科学者中野信子さんの専門家としての考察を交えながら番組を作り上げた内容。
特に光秀は年齢すら定かでは無いのだが、しかしここ最近になって新たな資料が次々と発見されてきて、その人物像もどうやらある程度は浮き彫りに。
歴史の様々な言い伝えは、実はきちんと検証しなければ、嘘もずいぶん混ざっているので。
特に明智光秀は天下の謀反人、大悪党とのレッテルを長年貼られ続けて、その実態は明らかにされる事はなかったようだ。
目次
明智光秀の人となり
実は明智光秀がどんな人物だったかは今までの歴史的な考察は全て作られたもの(捏造)に近く、事実はどうやら違っていそうだ。
様々な資料がある中で、光秀直筆とされる文書もある程度は見つかってきているので、そこからその人柄を考察することが可能になっている。
明智光秀の前半生は、はっきり言って恵まれたものではなかったようだ。
彼が人生の中で花開いてくるのは40歳を過ぎてから。
前半生はほとんど浪人に近い状態で活動していたものと。
今回テレビで見た番組では、
様々な文章をもとに光秀の性格分析を試みている。
最新の性格分析方法で566個の質問に答える形で集計を試みるのだが、その回答の判断になったのが、残されている光秀のものと思われる様々な文献。
浮かび上がってきた性格は驚くほどフラットな控えめなもの。
自分の感情を表に出すことなどほとんどなく、また主君信長に対して全精力を傾けて仕えていた様子などが見てとれる。
はっきり言って、かなり複雑な立場であったことも事実。
織田信長の有力な家臣であると同時に、将軍家にも仕えていていくつかの仕事を掛け持ちしていた。
番組の中で考察されていたのは、驚くほどの有能ぶり。
戦いにおいてももちろんだが、敵対勢力との交渉能力もずば抜けたものがあったと。
1568年頃からは信長は光秀を多用している。
それは光秀を起用すればかなり難しいとされる案件も難なくこなすことができたから。
当時の信長の家臣団の中では、光秀と後の豊臣秀吉が二大勢力で覇を競っていたのだ。
信長と光秀


光秀は当時の室町の将軍家と密接な関係にあり、信長との交渉役を引き受けていた。
しかし基本的には足利将軍は信長のかいらい。
実権などあるはずもなく 。
そんな中、信長は自分の意にそぐわない勢力はことごとく排除する姿勢を貫いていた。
有名なものに延暦寺焼き討ちがある。
比叡山の焼き討ちは織田信長の暴力的な行為の象徴とされているが、その焼き討ちを行ったのは光秀本人。
我々の習った歴史では比叡山全山を根絶やしにするほどの大量殺戮と聞いたが、実際は違っていたようだ。
根本中堂と講堂を焼き払った程度で、記録に残るほどの傍若無人な事はしていないようだ。
どうやらある程度の事はするが、交渉力によって比叡山と織田信長両方のメンツが立つように最低限の武力行使で留めていたらしいのだ。
実はこのやり方を織田信長は 褒めちぎっている。
こういった後から改ざんされた歴史もずいぶんあるので、比叡山焼き討ちは事実上の遺構発掘によってその実態が明らかになる。
実際に発掘する作業で分かったことが歴史の裏付けとなっている。
また光秀自身の文章から見ても織田信長を全面的に信頼していて、なりふり構わず頑張っていたことが見てとれるのだ。
そのようなことを考えると、ちょっと気の毒にすら思う。
ちなみに明智光秀の年齢も諸説あって定かでは無いのだが1番有力な説は信長の6歳年上 。
つまり本能寺の変の時は55歳だったようだ。
豊臣秀吉が信長の3歳年下とされるので、光秀が一番年上。
ちなみに家康が秀吉のさらに3歳年下である。
本能寺の変に至る考察


記録によると明智光秀は信長から与えられた激務に体を壊して半年ほど休んでいた時期があると聞いている。
体を壊すほどの激務を信長から言いつけられていたことに。
そして、 体調不良は光秀の穏やかな精神状態をも蝕み始めていたと思われる。
中野さんの分析によれば、本能寺の変の一年前の文章を分析すると物事に対する懐疑的、否定的な考え方がある程度目立つように。
つまりこれらの特徴があると信長自身に対する信頼も揺らいでくる。
そして何よりも今まで自信を持って行動できていたものが自分自身も疑心暗鬼になって、ひょっとしたらと自分の身の回りのことも悩み始めると聞いた。
ちなみに織田信長の軍団は典型的なブラック企業だとも。
このブラック企業の中で光秀は極限まで酷使され続けていたと言える。
そして1582年6月2日の未明、本能寺の変に至るのだ。
実はこのタイミングは光秀にとって格好のチャンスとなっていた。
このときの信長の軍団は主な勢力は皆全国に四散しており、京都にいた信長と跡継ぎ信忠は、ほとんど満足な護衛もなしに丸裸でそこに存在した。
光秀は思い悩んだあげく、その一瞬のチャンスに全精力を傾けたと言える。
それはある意味降ってわいたチャンス。
信長は光秀のことをハナからポチと思っていたに違いない。
自分には絶対逆らわないと頭から信じて疑わなかったのだが、そこが大誤算だった。
今まで必死に耐えてきて信長に仕えていた光秀のモチベーションは本能寺の変で途切れることに。
しかしこのある意味思いつきのような行動はその後が続かなかった。
明智光秀は本能寺の変の後、生きながらえたのはわずか11日。
3日天下と言って後の歴史家は皆馬鹿にするが、その前後の様子をきちんと理解しないものの発想だと言える。
織田信長のブラック企業ぶりはまさに筋金入り。
信長自身はおそらくサイコパスで、人の心の痛みなど全く意に介さなかっただろう。
結局登場人物たちそれぞれの心の中の隙をついた形で歴史的な事件は起こったようだ。
番組の考察もそのようなことでまとめていたと思う。
それにしてもこの歴史的なミステリーは興味のつきないところ。