くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

敬老の日が色あせて感じちゃう理由

 

今週のお題「おじいちゃん・おばあちゃん」

一昔前と違って敬老の日といっても単なる休日の1日でしかない印象だよね。

敬老の日はお年寄りに感謝する日となってはきたが、自分が敬老される側に回ってみると、なんとも不思議な気持ちになる。

昔は周りには所々におじいちゃんおばあちゃんがいた。

今はおじいちゃんおばあちゃんの印象が希薄になったと強く実感。

周りから敬ってもらうなんてそんなおこがましいこと。

私などどうしてもそう思ってしまうのだ。

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普通はこんな理想型を想い描く

目次

年齢を重ねることに感謝をする日

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昔は年寄りに感謝すると教えられたが今は少し意味が違うだろう

今の日本は徐々に人口が減りつつある時代。

一昔前は人口は増えて当たり前の印象があったが、先進国である日本はどうやらそんな時代は終わった。

若者の割合が減っていて老人が人口の半数以上を占める時代になりつつあるのだ。

お年寄りに感謝するのももちろんだが、ここは意味を少し広げて、

誰もが歳をとるわけだから歳をとることそのものに感謝をすると目的を変えたらどうだろうか。

私も歳をとってみてわかるが、胸の内は若い時とほとんど変わらない。

若い時と違って少し考えることが増えたくらい。

私の場合は、自分の人生の後始末をどのようにやっつけていくのか、その心配事が1つ増えたぐらいで、他には若い頃と似たような考え方で生きている。

それなりに様々な経験を積んだので、やっていいこと悪いことの区別も少しずつ分別がついてきたのでは。

20歳や30代位まではこれをやってはいけないと知りつつも、その時の勢いや流れでやってしまったことも多かったのでは。

さすがに65歳を過ぎればそういった事はほとんどなくなってしまう。

心の中に衝動で湧き上がるものが少なくなったのではと勝手に推察している。

昔と今は明らかに違う

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市民後見人の例

私が若い頃や子供の頃だと、60歳と言えばかなりの年寄りに見えた。

自分から見ても、それは明らかにおじいちゃんでありおばあちゃんだったような気が。

今は全く様相が変わってきたと。

60歳ならまだ現役で働かなければいけない世代。

年金をもらって暮らすなんて甘い考えは通用しないのだ。

若い時からしっかりと人生設計をして年金生活かそれに近い状態でもきちんとお金の管理ができていた人はそれほど困らないだろうが、そんな人は少数派だと私は見る。

私などそうだが、年金暮らしが始まって見たところでアルバイトなどで少し収入を補わなければ、暮らしが成り立たないのだ。

昔のおじいさんおばあさんは少なくとも焦っているようには見えなかった。

私の世代の年寄りはどのようにして日々暮らすのか、大なり小なり焦りを感じているのでは。

そういえば、昔の人はどうやって毎月の生計を立てていたのだろうか。

おじいちゃんおばあちゃんが一人暮らしをしている話はあまり聞かなかったような気がする。

大抵、本家と呼ばれるところにおじいちゃんなりおばあちゃんなりが同居していたと記憶。

そこにいれば、家の中の細々した仕事を少しずつ手伝いながら食事など生活の全般は家族と同じようにしていたと思われる。

家計的なことも心配はあまりいらなかったのかも。

歳をとって元気な人も多い

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年金で支える人支えられる人のイメージ

今の年金制度は若い人が年金と称してお金を納めて、そのお金をお年寄りがいただく形をとっている。

もちろん仕組みには難しい約束事がいくつもあるだろうが、印象としては少ない若者世代がたくさんのお年寄り世代を支えていると思ったほうが間違いない。

年金は要するに支える世代と支えられる世代のバランスで成り立つ。

年金をいただいている私からすると、サラリーマン時代 律儀に年金を支払いし続けてきた。

その見返りが今だと思えば別にどうということもないが、今の若者たちよりは多少なりとも支払いは楽だったような気が。

理由は簡単で、支える世代の人数が今よりも圧倒的に多かったから。

一般市民が疑問を抱いたところで、これらの年金支給のカラクリは簡単に説明できるものでもなさそう。

よく聞こえてくるのは制度を維持するためにどうしても支える側の人数が圧倒的に足りない。

人口の割合を見ればよくわかるが、若者が少なく年寄りが多くなれば当たり前すぎるくらいの現実が待っているではないか。

今は歳をとっても働ける人は圧倒的に多いし、また働かなければ生きていけないのも事実。

働く場が欲しいと思うのは苦しい年金生活を強いられる者としては切実な願いなのだ。

避けられない老い

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介護する側もされる側も結構大変な時代だ

アルツハイマー病を始めとする認知症や、その他の様々な疾患で介護される人も増えてくる。

ここでも厳しい現実があって、

介護をする支える側の人材が明らかに不足しているのだ。

介護には要支援と要介護の認定がある。

これは役所で行うのだが、この認定会議で認定を受けて、初めて介護保険などの公的補助を受けられる。

この仕事に携わっている人たちはマジで大変なんだよね。

ささやかながら私もボランティアで多少関わりを持っているので少しは知識として理解はしているが、これらの1連の作業は介護するほうもされる側もほとんど全力投球が要求されているような気がする。

とにかく力尽きて倒れてしまわないようによくよく力の配分を考えて長く続けられることを意識しなければならない。

朗らかで楽しい毎日を過ごせる事

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孤独死だけはしないように

歳をとってみると今更望むべきことなんてそれほど思いつくわけでもない。

とりあえず日々誰かの世話になることなく安心して暮らせるだけの健康は欲しいよね。

そして明るく楽しいことが1日に1つ2つあることが望ましいんでは。

私が最近特に考えるのは孤独死だけはしちゃダメだよなと。

自分自身の生き死にを誰にも気づかれないなんて、それはその人にとっても大変な恥だろうし、孤独死する人を出してしまった社会にとっても恥なはず。

最低限そういったことを避けられるような社会のシステムがあってしかるべきと考える。

仕事柄、敬老の日も今回は仕事をしていた。

ゆっくり家でと考えないでもないが、仕事のオファーをいただけることが私にとってはある意味嬉しいことだと感じている。

とにかく、若い人たちと違って明らかに余命は短いわけだから、のほほんとだらしない毎日を過ごすわけにもいかないだろう。