いよいよ今日のエピソードから徳川家康が誕生する。
この物語の出発では、松平元康。
桶狭間の戦い以降、元康を家康に改名。
それは、今川家とのつながりを完全に断ち切るための徳川家康の心意気だったとも言える。
と同時に、三河平定を成し遂げた家康にとってその地位を盤石にするためには朝廷からのお墨付きが必要とされた。
この時代、朝廷との結びつきは家系的に源氏か平氏のどちらかの子孫であることが望ましいとされた。
つまり、たどれば源頼朝か平清盛に続く家柄となるだろう。
ちなみに、徳川家康は源氏の出とされる。
さらに、織田信長は平氏を名乗っていたと思う。
時代は群雄割拠でまさに戦国時代の末期。
戦乱の世を平定するために必要な事は、強いリーダーシップと政治力、軍事力そのどちらもが求められた。
今日の物語では、この時代の最強の武士と名高い武田信玄が中心的役割を果たす。
描かれたエピソードは、歴史的事実に基づきながらも脚本家の想像力によって合理的に脚色されていた。
目次
誕生 徳川家康
ちなみにだが源頼朝は清和源氏の流れをくむと言われ、清和天皇に端を発する。
これが源氏の嫡流とされる。
大抵、戦国武将たちは何とかしてこの嫡流に自分の家系を結びつけようと努力していたらしい。
つまり、それこそが説得力の源だったから。
物語でも描かれていたが、それはほとんどこじつけ。
必死で寺の過去帳を探しながら何とかして結びつけようとする。
徳川家康は、吾妻鏡の熱心な読者だったこともよく知られている。
前作の大河ドラマ鎌倉殿の13人にも特別枠で登場していた。
吾妻鏡は北条家の一代記とされるが、源氏の詳しいいきさつも書かれている。
おそらくは脚色の部分も+あるだろうが、当時の情報伝達の手段としては、それ以上のものはなかったと思われる。
徳川家康は、家系図をくまなく調べたところ得川の文字を発見。
それを徳川として朝廷に金品を積んで勝ち取った地位。
徳川家康対武田信玄
今川家が事実上機能不全に陥っていることをいいことに、武田信玄は今川領への進出を試みた。
周りの領国を見ても誰も逆らわないと思われたが、織田信長連合軍はどうやらそれを簡単に許すわけにはいかなかった。
この頃、信長は将軍足利義昭を擁立するために上京することを企てていた。
武田信玄の動きは牽制しておく必要が。
ここで家康は信玄の術中にはまる。
老獪な武田信玄は、まともに五分の話し合いなど初めからする気はなく、巧みな策略で徳川家康を孤立させる
そして、直談判。
自分は駿府をいただく。
家康は遠江を合併してはどうか?と。
この話し合いを有利に導くはずだったが、フタを開けてみれば武田信玄の独壇場。
武田信玄は、甲府を出てから1週間ほどで駿府を調略。
驚くべき速さだと言わねばならない。
風林火山の旗印の下、侵略すること火の如しはまさにその通り。
対する家康は遠江の引間城の攻略には気がかりな点が1つ。
駿河と遠江(するが とおとおみ)
今川氏真は歴史的には無能な武将とされる。
彼は、父が残した広大な所領を全く守ることができなかった。
今川のかつての家臣団はほとんど全てが武田信玄になびいていた。
政治力、軍事力どれをとっても武田信玄はこの時代では戦国最強と思われた。
目をつけられた国はことごとく配下にならざるを得ない。
今川の本拠地駿府は簡単に武田信玄の手に。
今川氏真は行方不明。
さて、南側の今川領を守のは引間城主飯尾田鶴。
彼女は、夫亡き後女城主となって所領を守っていた。
今川家の忠実な家臣として、徳川家康と敵対することになる。
この辺は歴史的にもきちんと記録されたことなので間違いは無い。
お瀬名とお田鶴
瀬名と田鶴は幼なじみとして駿府で楽しく暮らした記憶が。
2人が仲良く遊んでいた様子が、物語の中の改回想エピソードとしてあちこちに登場していた。
このときの引間城に今川からの援軍は来なかったようだ。
つまり、籠城して城を守るしかないのだが、残念ながら多勢に無勢。
田鶴は家康との一騎打ちに備えて、自らの城に火をかけてしまう背水の陣。
最初から勝つつもりなどなかったんだろうと思う。
物語で描かれたのは、徳川の鉄砲隊の前に自ら飛び込んでいく。
たちまち狙い撃ちで射殺されてしまった。
これが物語の歴史的事実として描かれていたね。
歴史のすう勢
この時代、最終的な争いの解決手段は戦しかなかった。
命のやりとりをしなければ、自分たちの要求が通らない。
情報伝達も思い通りにはならない。
戦国武将の中でも、歴史に名を残す武将たちは、それぞれ情報収集のための独自のシステムを作り上げていたが、その中でも徳川家康と武田信玄の収集能力はずば抜けていたと思う。
両方とも忍を使って巧みな情報収集システムを構築していた。
さて、瀬名の幼なじみ田鶴は儚くも命を散らしたが、来週は彼女の主君とされる今川氏真について詳しく語られることになる。