くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

老齢を考える不老不死を目指さない生き方

 

不老不死は仙道の考え方

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仙人が霞を食っている様子

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目次

 

実は人の生き死にとか長生きとかそういったことに興味があって今日まで過ごす。

若い頃は不老不死ってなんて素敵なんだろうって考えていたが、いつの頃からかつまらないと思うように。

様々な人の一生を見てきて、自分自身も老齢に差し掛かってきて、それなりの検証はあってしかるべきと考えるようだ。

人生の値打ちは人それぞれ。

中国では昔から不老不死を求める風潮があったと聞く。

記憶をたどると、仙道と呼ばれる分野で修行によって求められるらしい。

かつて師事をした密教の阿闍梨が一旦生まれてきたものが死なないわけないじゃないかとおっしゃられて不老不死の考えを一蹴したのを覚えている。

しかしながらその一方でこうもおっしゃっておられた。

人の一生の成長の度合いを見てみると、25歳で精神面肉体面は完成するとみている。

そしてその 25歳の5倍が本来の寿命である。

つまり人は125歳まで生きて人生を全うしたと言えるのである。

これを聞いてカルチャーショックを覚えたのを今でも思い出す。

何を根拠にとも思ったが、遠からずそれは受け入れ可能な見解と認識できる。

この125歳まで生きられない原因を様々考えてみると、それは誰もが思いつく通りに、病気を始め様々な体に起こるトラブルが挙げられるだろう。

また事故もあり得るわけだし、人はなにがしかの制約によって人生を全うできない生き物なのかもしれない。

なんとなく生きていたなら、このようなことを考える事は無いだろうし、生活に追われていればとてもここに思いを巡らすことなどありえない。

しかしながら還暦を過ぎて周りで1人2人と人が亡くなっていけばいやがおうでも考えざるを得ないのが人情というもの。

特に最近の、交通事故などでわずか4〜5歳の子供たちが命を失ったり、様々な事件に巻き込まれて10代20代の若い命を散らす。

異常な事態と認識する。

どうすれば、穏やかでそれでいて明るく朗らかな人生を送ることができるのか。

多分、科学的な分野で利便性を求めても目的達成はかなわないだろう。

めんどくさいことを言っても始まらないが、これはどちらかと言えば哲学などの世界と言える。

もちろん科学的な分野での恩恵は人を幸せにするのに充分貢献はするが、受け止める側の人間が恩恵に浴するだけの資質がなければ宝の持ち腐れと言うもの。

果たして、どれだけの準備をすればどれだけの幸せを身に体現できるのか。

なかなか興味深い分野ではある。

人生の値打ちは死ぬことがあるからと解釈

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命の対極にあるのが死 軽々しく扱える問題ではない

 人は必ず死ぬと定まっている。そのことに真っ向から逆らってみたところで、死を乗り越える事は不可能である。

死生観は軽々しく論ずることはできないが、だからといって重く目いっぱいで受け止めるのも苦しいばかり。

老いも若きも常に自分に対して問いかけるべきと考える。

人にもよるだろうが親の死は生き死にを考えるのに最もインパクトのある出来事。

かく言う私は、両親ともに癌で亡くしている。

がん患者が最後に息を引き取るときの壮絶な物語を2度ほど目の当たりに見せてもらった。

体が少しずつ弱っていき、体重が激減して、そのうち意識は混濁。

そして様々な管が体につながるのだが 、それらの作用によって命を何とかつないでいるような状態。

やがて何もかもが正常に機能しなくなり、特に最終的に腎臓の働きが止まりかけた段階で臨終は極めて近いと言える。

両親ともにそうだったので。

息を引き取るときには、努力呼吸の後、少しずつ呼吸は弱っていき、やがてコトンと止まる。

止まる直前からは取り付けられたメーターのグラフもほとんど針が触れることもなく、呼吸が止まって心臓も止まって少しの間があってからアラームが鳴るのである。

大抵、病院でなくなる場合はこの状態はきちんとナースセンターでモニターされており、すぐに担当者がやってくることになる。

後は、通りいっぺんの流れ。

ほとんどの場合は葬儀屋さんとの関わりになる。

不思議なもので身内が亡くなっても、感慨にふける時間はほとんど許してはもらえない。

さて、このような経験をすると自分の身にもやがて起こるのだろうと考えるのは自然な流れ。

この極限の状態を経験すると、こんなのは嫌だとか長生きしたいとか元気でいたいとか、そのような考えは全く湧いてくる余地がない。

どうすれば、上手に受け止められるのかを考えるようになる。

子供が親から受け継ぐもの

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親からは生きることを学び死ぬことを学んで命を相続する

 私は両親から様々なことを学んだが、1番値打ちのあるものはその死に様だと思っている。

ガンで厳しい闘病生活の後に死んでいったのだが、その1連の流れが私にとってはかけがえのない学びの時間だったと考える。

この時間が長い短いで受け止め方も少しは変わってくるかもしれない。

私は父親の時はおよそ2ヶ月弱。母親の時で1年半闘病生活に関わった。

父親が亡くなって母親がなくなるまでにおよそ8年間の間があったのだが、その間医療の進歩は目を見張るものがあって、がんの治療法も随分と進んでいる気がした。

人がどのように死を迎えるのか、それは言葉ではなくそばにいることによってしっかりと学ぶことができる。

やがては自分の身にも必ず起こるのだと、言い聞かせるしかないのである。

不思議なもので、そのような死に様が恐怖であるとは全く感じなかったし、今も感じてはいない。

気にするのは、両親の時は息子である私が看取ることができたが、私は妻も子供もないので誰かが看取ると言うことにはならないだろう。

昨今、社会問題とされている孤独死。ひょっとしたら自分は孤独死するのかもと考えないでもない。

一人暮らしの私のような年寄りは全国でも相当な数いるだろう。

そのような人たちが、どのような最期を迎えるのか、周りの様々な行政機関も大いに注目はしているだろうが、当の本人である私自身も十分に考察をしておく必要が。

ここまで生きてきてわかったことは、人の生き死にはどうやら本人の意思では決められないようだのだ。

多少は関わることができるのだが、決定的に流れを覆すことには至らないようだ。

せめて不本意なふがいないことにだけならないように準備をするぐらいはできてしかるべき。

今の私が、到達して受け入れている考え方である。

結論として言えるのは、その時が来てうろたえる事はしたくないのである。

死んでいくことには多少の不安はあるが恐怖を抱くまでには至っていない。

不安は、1連の流れの中で少なからず見ず知らずの人にお世話をかけてしまうこと。

申し訳ない気持ちがどうしても先に立ってしまうのだ。

私は様々なボランティア活動に携わっているが、そのもっともな理由はあらかじめ罪滅ぼしをしておくこと。

かなわないと知りつつ、可能な限り人様の役に立っておきたいのだ。

だっていずれ誰かに大きく迷惑をかける可能性があるから。

ポジティブとネガティブなこと

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それぞれに言い分があるでしょう

明るいことと暗い事の話をすれば、明るい方が良いいいはず。

ポジティブである事は活動的に何でもやろうとする気が湧いてくるが、ネガティブ思考の場合は 、著しくやる気を損なって、できることもできなくなってしまう可能性が。

それは、言葉に出してももちろんだし、考えの上でもポジティブを心がけた方が明らかに有益。

まず、暗いことを言ってはいけない、人を批判してはいけない、この辺を心がけることによって心の有り様が少しずつ変わってくるのではないか。

人の特徴として誰か敵を作って、そこに怒りや憎しみを集中すれば簡単に心をまとめ上げることができる。

 1番やってはいけないことの代表だろう。

アンチ某が成功する例はないと心得なければ。

共産主義なる考え方があるが、出発がアンチ資本主義だった。

その末路がどうなったのかは誰もが知る通り。

ネガティブ思考に陥らないコツはいくつかあるのだが、

まず、第一に微笑むこと。

第二に自分と自分の周りの人に感謝をすること。

第三に声に出してありがとうと言う事。

この3つを常に心がけるならば自分自身へのポジティブマインドコントロールはうまくいくはず。

終活

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札幌の夕焼け 都会でありながら田舎かな

終活

この言葉に違和感を感じる人もいるはず。

言葉が1つ生まれると、それに基づいて商売が生まれてしまうのが世の常。

そんなことを望んでいるわけではないのに。

大げさに考えると何もできなくなるのだが、少し不安を感じてネット検索をするとこのような言葉のジャンルで山ほどの結果がでてくる。

かえってどれがどれだかわからないぐらい。

どれか良さそうなものを参考にしてと考えているうちは、本当の終活にはなり得ない。

 1人称で自分自身の人生についての振り返りをする作業なわけだから。

気をつけなければたくさんの情報は自分自身の片付け作業を大いに邪魔するはず。

参考にすべきは、誰かの経験談のようなもの。

どのように感じてどのように後始末をしたのか。

これからどのように過ごすのか。

その程度のものならば比較してもいいのかもしれない。

自分の人生を自分で考えるのである。

私のようにこれはといった家族のないものはある意味気まま。

家族のいる人はそれなりに責任があるのだろう。

その時には様々な情報を参考にして片付け作業を行えば良いだけ。

場合によっては時間のない人もいるのかもしれないが、ここでも目安となるべき行動は、

焦らないこと

 

イライラしないこと

 

時間がかかっても良いと思うこと

 

この3つは思うに心がけていいと思う。

うまい具合にきちんと総括できる人はかなり幸せな人。

私など全く及ばない世界。

いつも開き直ってしまうのだが、このまま とっちらかったまま人生終わっても仕方がないじゃないかと自分自身を笑い飛ばしてしまう。

自分の前に敵をこしらえない世界。

一見張り合いないように思えるかもしれないが、慣れれば気楽で楽ちんな世界でもある。

 1つ欠点があって、ぐうたらでいい加減なことを多少なりとも推奨してしまうので、本来 片付くものも片付かなくなる可能性が。

そこはご愛嬌である。

それぞれの人たちが、微笑んで生きられるようなことになれば、この上もなく嬉しい限り。

 

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