今朝、テレビで放送されていた原爆記念日の式典。
雨が降る中でかつての惨劇を思い、平和への誓いを胸に行われる。
聞けば、原爆被爆者の平均年齢は今82歳とのこと。
つまり、原爆投下の時はわずか 8歳。
一体どれぐらいの人が亡くなったのだろうか。
いかなる理由があってあのようなことが行われたのか。
現代にいる私たちにとって語られた事実のみが信頼に値する。
目次
74年前の惨劇
74年前の今日、広島でこのような惨劇が起こることを一体誰が想像しただろうか。
科学的な技術を追求した結果の原子爆弾。
軍事作戦とは言え、無差別の大量殺人以外の何物でもなく、当時、広島に住んでいた人たちは一体どれだけの武器を持って戦おうとしていたのだろうか。
それは、アメリカのマンハッタン計画から出発 。
昨日私がアップした記事を見ていただければ、私なりに調べた内容で記述してある。
様々な惨劇の様子が今日でも語り部となった人たちから聞くことができる。
原爆の投下直後に亡くなった方が数万人おられるとのこと。
重症を負って、わずかな時間で息絶えた人。
実は、なくなって遺体の発見されなかった人たちも多数おられる。
原爆の直下の人たちは、瞬時に蒸発して消えてなくなったと思う。
橋の欄干にその人影がくっきりと残っている画像があった。
驚くべき熱量。
また様々な検証がなされて、原爆にスイッチが入った瞬間に、つまり、まだ光の玉が出現する前の段階で数百名の方は一斉に放出された中性子線で即死したと言われている。
我々が画像で目にするのは、キノコ雲か撮影用に作られた光る瞬間の映像。
実物を見た人はもう何人もいないだろう。
瞬時になくなってしまった方もお気の毒だが、何日間か苦しんで亡くなった人たちはどうなんだろうか。
全身焼けただれて、目が飛び出たり、耳や鼻が引きちぎられた人たちは一体どのような中で絶命したのか。
核廃絶が叫ばれて幾久しい。
どれほどの進展があったのか。
昨日のブログでも書いたのだが、あの時アメリカは、原爆をマンハッタン計画で4基作ったのだが、 1つは実験で使い2つは実践で使うことになったのだ。
そしてそれ以降も発注が続いて全部で120基作られたことになっている。
広島長崎の直後からすでに核兵器を中心とした軍拡競争は続いた。
今はどのような状況になっているのか、それぞれが胸に手を当てて考えてみればよくわかること。
核実験を禁止するとか、ミサイルの開発を凍結するとか、様々な事は言われてきたが今それらは全て撤回されつつある。
実際に原爆を作って爆発させるのは北朝鮮のような開発途上国に限られる。
アメリカやロシアなどの先進国では臨界前核実験と言って、コンピューターの中のシュミレーションで自由に核実験を行っている。
コンピューターの中なので、部外者が知る術は全くない。
進んでいる国では、思いのままに操れるのだ。
実は、唯一の被爆国とされる日本にしかできない情報発信がある。
それは他でもない被爆体験を克明に語り継ぐこと。
惨劇を忘れることなく発信し続けること。
この惨劇を知らない者たちは欲望の赴くままに、敵味方に分かれて相手を傷つけることのみを考える。
その考え方の究極に位置するのが核兵器と言える。
人類全体にとって、どれだけ不利益なことなのかを誰も真剣には考えていないように見える。
そのことを身をもって語れるのは日本だけ。
被爆国であることのある意味、責任なのかもしれない。
ここでの語り部がいなくなれば、この惨劇は繰り返される可能性が高いと見る。
そのための平和式典なのだ。
今朝の8時15分、僭越ながら黙祷を捧げた。
主な代表者たちの平和のためのスピーチがいくつか報道されたが、惨劇のことを考えれば考えるほど虚しく感じたのは私だけか。
誰も責任を取った人はいない
広島長崎の原爆に関して責任云々の話はほぼ出ないと言える。
インターネットで調べるとソ連かロシアの高官が無差別大量殺人として軍事法廷で裁かれるべきだと言っていたとかいなかったとか。
大勢の犠牲者が出た以上、償える方法など残ってはいまい。
大体何を持って償うのか。
原爆の投下作戦を決行したアメリカは絶対に責任など認めるはずがない 。
軍事作戦の一環として行った。
しかも、彼らの言い分は、広島も長崎も家内工業的な軍需産業の街でそれを叩くためには必要だったと。
詭弁以外の何物でもない。
作ったものを爆発させてみたかっただけだろう。
この言葉は言い過ぎかな?
しかしこれらの議論はあまりに虚しいと言える。
私が第一に考えるのは、亡くなられた犠牲者たちへのお弔いの心。
どのようなものをお供えすれば、苦しんで亡くなった人たちのおみたまに心を届けて差し上げられるか。
それは、軍事法廷での裁きとか責任とか、ほとんど意味をなさないと感じる。
二度とこのような惨劇を繰り返さない。
世界中がそのように心を込めて祈ればあるいは浮かばれるのかも。
近い将来そのような日が来なければ、人類の未来に希望と呼べるものがあるだろうか。
未来へ託す気持ち
世界中の人たちは、相手のことを疑心暗鬼になって疑ってかかっている。
お互いにわかりあおう、理解し合おうという基本的な気持ちに大きく欠けているのではないか。
大国と呼ばれる国もそうでない国も、皆自分の利益しか考えていない。
はっきり言えば、自分さえよければ他はどうでも ということ。
これだけ様々な情報伝達のアイテムが発達してきた今でも、心の距離は縮まってはいないのかも。
皆科学的な技術革新は大歓迎するようだが、心の奥行きとか、広がりとかを求めているようには見えない。
狭い領域の中でしか物事を考えていないように映る。
そこには反省もなければあらたな出発も生まれないだろう。
今日の記念日はそのようなことを再確認させる内容だったと感じる。