戦後間もない頃の生まれの私は、終戦記念日が近づくたびに様々な記憶を呼び覚まされる。
広島と長崎の原爆投下は、過去に何度か他のブログでもアップしたことがあるのだが、ここではその元になったマンハッタン計画からの内容を考察してみたい。
人類史上、原爆の直撃を見舞った国は日本だけである。
唯一の被爆国と言われる所以である。
マンハッタン計画の出発は、理論物理学者たちが抱いた危機感があった。
物理学者を代表してレオシラードとアインシュタインが連名で原爆開発の必要性を手紙で進言したのだ。
目次
科学者が感じていた懸念
この時(1939年) 、物理学の中では量子力学が発達を遂げて、ウラン238 の同位体であるウラン235を使えば過去に類を見ない巨大な爆発的なエネルギーが得られると誰もが提唱するようになっていた。
核分裂の提言。
これは火薬が燃焼するのとは訳が違う。
物質の1部がきれいさっぱり消え去ってエネルギーに変換されるのである。
これが有名なアインシュタイン博士の特殊相対性理論によって導かれる、エネルギーと物質の変換式。
この驚くほどシンプルで単純な方程式は、もし物理学の方程式の品評会があったならば間違いなく1位を取れる 。
この方程式から様々なアイディアが生み出され、兵器として利用されれば原爆ないしは水爆。
平和利用をすれば原子力発電所ということに。
当時第二次世界大戦が始まろうとしていた時に、敵味方に分かれていたが、ドイツの側とアメリカの側で原爆に対して開発競争が起こりそうな雰囲気だったのだ。
もし、この理論をもとに爆弾が作られたならばその被害は過去に類を見ない悲惨な結果をもたらすとの提言がなされたのだ。
これらの物理学上の成果は政治家や軍人などには最初は理解されなかったが、既に物理学者の間では常識となりつつある理論だったのだ。
核燃料さえ準備できれば爆弾ができる。
これらの進言をした人たち、そして啓蒙された政治家、軍人などの間で原爆製造の機運が高まったと言える。
ここで1つ付け加えるが、アインシュタインはこの進言をした後に政治的な思想を疑われて、マンハッタン計画への参加はおろか、その計画自体の存在も一切明かされなかった。
アインシュタインは熱心な反戦主義者であって、原爆製造の片棒を担ぐなど絶対に受けなかったはず。
この当時の物理学者たちの良識ある人たちは、ほとんどがこのマンハッタン計画から外されている。
彼らがこの計画の存在を知るのは、広島と長崎に落とされた原爆のニュースを新聞によって知るのである。
アインシュタインは気絶するほどの恐怖に襲われたと聞いている。
私はこの間から戦争に関わる記事をいくつかアップしてきたが、湯川秀樹博士の記事の中でアインシュタインも紹介している。
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マンハッタン計画発動
ルーズベルトの指示を受けて陸軍中将レズリーグローヴスが最高責任者としてこの計画の発動に当たった。
彼は表向きにはあまり知られていない名前だが、実際に原爆投下の指示を出したのは彼だと言われている。
原爆投下の最終責任は当時の大統領トルーマンが当たっていたようだが、大統領自身は曖昧な答えしか出していなかったというのが最近の研究でわかってきている。
私が聞いて知っているのは科学的なチームリーダーにロバートオッペンハイマーが当たっていたという事。
このオッペンハイマーは実は愚かな科学者の代表として今は知られているのではないか。
彼は原爆製造の片棒を担いで 広島と長崎で20万人以上の殺戮に加担したので。
この信じられないような死亡者の数をきかされてオッペンハイマーは無残な位にやせ衰えたと聞く。
おそらく、彼は“引き受けなければよかった”と思った可能性も考えられる。
しかし、彼がやらなければ他の誰かが必ず引き受けたはず。
原爆開発には1つの合言葉があったと聞いている。
「ナチスドイツに遅れてはならない。アウシュビッツなどに捕らえられたユダヤ人の仲間たちをこの原爆製造で救わなければならない。」
実はこのときの原爆製造に当たった物理学者たちはほとんどがユダヤ人だと聞く。
ユダヤ人は不思議な民族で、ノーベル賞受賞者の数で言えば世界でもトップクラスである。
それだけ優秀な人たちが、一堂に会して仲間を助けるために必死で頑張っていたのだ。
彼らの原爆製造の時の仲間内の言葉は“ヘブライ語”だったとの話しさえある。
つまり仲間を救わなければならない一心で原爆製造に当たった。
以前、ホロコーストについて調べたことがあった。
これはユダヤ受難の言葉とされているが、実際は儀式を表す言葉だと聞いた。
私が知りえた中では、ユダヤ教キリスト教イスラム教は皆アブラハムの子孫で兄弟分と言えるはず。
およそ西欧諸国の争い事は、私の目から見れば兄弟喧嘩の延長みたいなもの。
マンハッタン計画の裏に隠された(隠したつもりはなかっただろうが)事実と言える。
出来上がった原爆は4基
この4基作られた原爆の内訳は 広島タイプ左側のものが一基、右側長崎タイプのものを3基 である。
19 45年の7月に入って最初の原爆実験が行われた。
ニューメキシコ州のはずれである。実験計画をトリニティー。
使用された原爆はガジェットと名付けられていた。
この時に利用されたのが長崎タイプ。
ざっくりと説明すると、原爆のタイプは2種類あって、今はほとんどが長崎タイプのものが使われる。
こちらの原爆は燃料はプルトニウムを使っている。プルトニウム239である。
自然界には存在しておらず、原子炉の内部で、ウラン238 に中性子が一個飛び込んで物質の形を変える。
これだけ重たい原子になると、原子核も極めて不安定で、中性子を出したり陽子を放出したり、いわゆる放射線を活発に出している。
原爆や水爆といった核爆弾はこのような不安定な核物質を爆弾に転用したもの。
これらの核物質は、人体に極めて有害と言える。
放射線被曝は原爆のみならず製造過程でも容赦なく人間に健康被害を及ぼす。
またプルトニウムの毒性は極めて強く、人間が直接触れる事は厳禁である。
製造過程での様々な事故報告もあるが、そのほとんどは揉み消されて表のニュースとして出てくる事は無い。
アメリカに限らず原子力開発をした様々な国々では、他人に語ることができない不手際をいくつか経験しているはずだ。
もし、まともに公表すれば、世の中から袋叩きに会うのは間違いない。
4つのうちの1つは実験で使用し、残りの2つを広島と長崎に投下して、一基は余ったのである。
科学者たちが原爆に求めていたのは、放射線被害などは2の次3の次で、1番の眼目はその圧倒的な破壊力。
特に空中高くで爆発させたときに、爆発で生じる衝撃波は、上空からと地上に到達した2つでその接点の部分でマッハステムと呼ばれるかつてない破壊力が得られるとされていた。
科学者たちが注目していたのはこのマッハステムによる破壊力である。
わかりそうでわかりにくい図だが、上空からの爆風と地上に到達して横に広がる爆風が一致した部分の破壊力は× 2で威力が倍増する。
今でも兵器の製造に関わる様々な研究者はこういったことを研究するのだろうか。
当時の原爆はこのような研究をもとに考案されている。
原爆の規模も明らかになっているのだが
広島タイプで15kt。
長崎タイプでは22kt。
ちなみに、1ktはTNT火薬1000t分である。
広島と長崎
広島に原爆を投下したB29はエノラゲイ号と呼ばれていた 。
作戦はただ爆弾を投下するだけではなく観測機器として気球も3つ投下している。
これには落下傘がついていたので当時広島の上空では原爆とおぼしき爆弾はパラシュートで投下されたと思っていた人がずいぶん多かったらしい。
これだけ危険なものをパラシュートで投下する事は絶対にない。
もし、風で流れていってしまったならばとんでもない事態を引き起こすことに。
エノラゲイは爆弾投下後爆発するまでわずか43秒しかなかったのだ。
したがって投下と同時に全速で離脱行動をとっている。
長崎に原爆を投下したB29はボックスカーと呼ばれた。
実は長崎は第二目標地点で、第一は小倉だったのだ。
小倉上空に達したところ雲が厚く爆撃には不向きと判断された。
何度かタイミングを見計らってだが時間ばかりが過ぎていき、また迎え撃つ日本側の戦闘機も確認されたために、第二目標の長崎に向かったのだ。
すでにボックスカーは燃料をかなり使い果たしており、作戦はギリギリのタイミングで行われた。
雲の合間からわずかに見えた長崎市街の景色を頼りに投下したのである。
はっきり言わせてもらえば非常に不運な話と言える。
しかしもう作戦行動としては決まっていたので、どこかには必ず落とす運命にあった。
ちなみに長崎で作戦行動したB29は残りの燃料が間に合わず、沖縄に緊急着陸して補給を仰いでいる。
作戦行動とは言え、これだけの裏に隠された話が明らかに。
終戦にならなければ次の投下計画も
実は原爆の計画は終戦にならなければ次々と投下される予定だったのだ。
広島の後長崎、その次の予定はさまざまに言われているが、北海道の札幌とか東京である。
なお4つ作られた以降の原爆は長崎タイプのものが発注がかかり、全部で120個作られたと記述にはあった 。
すべてを日本に落とすつもりはなかっただろうが、終戦記念日以降にいくつかの計画があったことだけは確か。
京都も攻撃対象に入っていた。これは軍内部でも反対意見があって取りやめになったらしいが。
しかし2つだけは投下され、大勢の人々が犠牲に。
まとめ
毎年必ず行われる平和のための式典。
このような行事を間違いなく継続することが原爆などの核兵器をみだりに作らせない使わせないことへの抑止力になるはず。
あの昭和天皇が、広島や長崎の原爆についてやむを得ない発言をしたことがある。
記者さんからの質問に答えたのだが、あまりにも不適切との抗議が相次いだのだが
[問い]陛下は、ホワイトハウスの晩餐会の席上、「私が深く悲しみとするあの戦争」というご発言をなさいましたが、このことは、陛下が、開戦を含めて、戦争そのものに対して責任を感じておられるという意味ですか?また陛下は、いわゆる戦争責任について、どのようにお考えになっておられますか?(ザ・タイムズ記者)
[天皇]そういう言葉のアヤについては、私はそういう文学方面はあまり研究していないので、よくわかりませんから、そういう問題についてはお答えできかねます。
[問い]戦争終結にあたって、広島に原爆が投下されたことを、どのように受けとめられましたか? (中国放送記者秋信利彦)
[天皇]原子爆弾が投下されたことに対しては遺憾に思っておりますが、こういう戦争中であることですから、どうも、広島市民に対しては気の毒であるが、やむを得ないことと私は思っております。
実はこの答えに対してたくさんのクレームが来たが、その時宮内庁からの説明があったと聞いている。
昭和天皇は自分がこれらの悲劇を止められなかったことに対して力が及ばなかったことを述べているのだと。
犠牲者に対するお弔いの気持ちは周りの人たちと全く同じ。
この会見の様子をリアルタイムで見たことがあるが、にこやかに話していたので多分良い印象を与えなかった可能性が。
私自身も、この時に違和感を感じたので記憶に残っていた。
さて、今の日本国民は多くの犠牲者の上に成り立っていると言えるし、我々日本人全体が言ってみれば遺族みたいなもの。
日本全体でお弔いをするべきと考える。
もちろん世界中の人たちからもそのようにしていただければ。
最近の世界情勢では、このような惨劇の状況を忘れたかのように争い事のニュースが絶えない。
今争っている当事者たちは明らかに戦争を経験していない。
過去にはこれだけの愚かしい行為があって、信じられない数の犠牲者が何十年にもわたって発生していたのだと。
奇しくも、明日は広島の原爆記念日。
現代を生きる者として、精一杯のお弔いの気持ちを捧げたい。