実は、内緒にしてきたわけでは無いのだが、私にはそれなりに暗かった過去がある。
高校を卒業した後、実は、大学を受験してうまい具合に合格したのはいいが、1年ほどはまともに行ったのだが、2年目以降はほとんど行くこともなく、3年目には退学と相成った。
自分のプロフィールを書くときには、高卒とだけ書くことにしている。
高校3年の時に、将来どうなりたいか特に希望があるわけでもなく、仕事をするのも正直乗り気ではなかったので、とりあえず大学にでも行けばとの思いだったのだ。
案の定、私のモチベーションでは大学生活もまともに続くはずもなく、アルバイトなどをしているうちに嫌気がさした次第。
だんだん生活が荒んでいく中で、当時、千葉の津田沼の大学の近くの下宿から川崎の小田急線沿線百合ケ丘に居を移してアルバイト生活が始まった。
目次
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小田急線新百合ヶ丘付近
これは昭和49年、50年頃の新百合ヶ丘駅。
実はこの駅の1つ手前に百合ケ丘があって、最初に住んだのはそこのアパート。
家賃が10,000円だったと記憶。6畳一間だったが。
トイレは共用で、台所は自前の小さなものが1つ。
風呂はなく銭湯へ通った。
1人で暮らしながら、何事もめんどくさがりの私は、仕事をしなければと思いつつも、アルバイトニュースで仕事を探してはみるものの、面接まで出かけていっては、気に入ることもなく、また一旦は決めては見ても、その後出社することはなく。
およそ、そうやって、1ヵ月とか2ヶ月程度は暮らした記憶が。
確か8月の末から、12月位までそんな生活をした記憶が。
当然のことながらお金は底を尽き、借金を申し込める相手がいるはずもなく、とりあえずは、こそこそと持ち合わせの金額だけで暮らしていたと思う。
家賃も何ヶ月か滞納したことがあり、催促をされた。
後はガス代が半年近くたまったと思う。
相当な剣幕で支払うことを要求され、確かちょっと待ってもらって2回ぐらいに分けて払った記憶が。
今にして思えば、せいぜい数千円レベルなので、大した金額では無いのだが。
家賃は、2か月分ぐらいずつ払った記憶がある。
基本的には借金なので、返済を迫られるのはかなり辛いものがある。
居留守を使って押し入れに逃げ込んだことも。
なんとも情けない話だが、基本的にやる気がないと言う事はそういうことなのだと。
この時代の私が、人生の中では1番荒んでいた時代だと言える。
働き口が見つからずほとんど部屋に引きこもり
日がな一日アパートに閉じこもって本を読んだりラジオの音楽番組を聴いて過ごしていた。
テレビと言うものを持っていなかったので、情報を仕入れる手段はひたすらラジオ。
しかし、ニュース番組などを聞くはずもなく私が聞いていたのはもっぱら音楽番組。
この当時から、もうすでにクラシック音楽のファンだったので、特に古楽器を用いたバロック期の音楽がお気に入りだったと記憶。
あの当時、次の日に何かを期待するわけではなかったので、夜寝るときに、明日の朝このまま目が覚めなければいいなと思ったことも何度か。
しかし、人の生き死には、残念ながら自分の意思でどうなるものでもない。
私は他の人よりは若干運が良かったのだろうか。
ギリギリのところで私を拾ってくれたアルバイト先があったのだ。
それはいわゆるドブさらいの仕事で、汚いことこの上ないが、それなりのお金も稼げたし、社長以下同年代の人たちで私のことを気さくに受け入れてくれた。
やはり人は、居心地が良ければ、そこには長く留まることができる。
その会社には5年ほどお世話になった。
その当時も貧乏暮らしは相変わらずだったが、私の性格としてとにかく脳天気。
財布の中に100円玉が2〜3枚入っていれば、とりあえず今日1日は食いつなげるだろうくらいの感覚だったのだ。
実際、あの当時の食事を考えても驚くほど質素だったと思う。
ご飯に味噌汁に目刺しを1匹ぐらい。
これで十分に食事として成り立っていたと思う。
そういった生活を1年ほど続けてから、アパートを変えたのだ。
変えたところの家賃が3万円だった。
今のように銀行引き落としなんて気の利いたものではなく、毎月 大家さんに払いに行っていたと思う。
昭和49年、50年頃と言えばたいていはこんな状況ではなかっただろうか。
この当時、マンションに住む人はかなり高給取りだったと思う。
アルバイト生活では月3万円程度の家賃でも、かなり大きな出費だったと思う。
貧乏なことこの上もなく
アルバイトを探すために立ち寄る駅は小田急線の向ヶ丘遊園。
ここには売店があって、アルバイトニュースが確か50円で売られていたと思う。
それを買ってひたすら働き口を探すのだ。
なんでもやったと思うが、学用品のセールスマンとか、八百屋の店員とか、お金になれば何でも良かったので。
しかし、自分の持ち味を発揮するのなら、やはり肉体労働が1番ふさわしいと言うことで、たまたま見つけた仕事先が、同じ小田急線の登戸駅近く。
こちらの会社にお世話になることに。
ここは下水の掃除専門の会社で、基本的には下請けの会社だったのだが、やはり汚くてきつい仕事なので、それなりの給料がいただけた。
同じように何人ものアルバイトは働いていたが、最後まで残ったのは私ともう1人ぐらいだったような気がする。
働かなければ食えないので、とにかく怪我をしようが風邪を引こうが、1日休めばそれだけ給料が減ると思って必死に働いた記憶がある。
自分の性に合っていたこともあって、この仕事はずいぶん長く続いて、入社して1年目で正社員に雇ってもらえた。
その時の1ヵ月の給料が12万円。
アルバイトをどんなに頑張っても月に8万円程度が限界なので、かなりいいなと思って働いたと思う。
外の仕事なので、雨が降ったりすると休みになる。
しかし、どんな緊急の仕事が入るか分からないので、とりあえずは出社して待機することが多かった気がする。
そして、1番ものを言ったのは、私は独身だったので夜担当だった。
勤めていた会社が受け持っている現場は交通量が多ければ昼間は仕事ができないので、夜中に出かけて行って作業をする。
夜は交通量も少なく、ある程度自由に仕事ができる。
ただし、かなり騒音の出る仕事なので、ごくまれに住民からの苦情が来て、その場合必ず警察が来るので、その説明に追われるのは煩わしかったと記憶。
昭和50年代の初めの頃のこと。
そうやって仕事をしているうちに、縁があって結婚をすることに。
結婚するとなると、結婚式その他で親の出番が出てくる。
親は私の仕事が心配らしく、(夜の仕事なので)昼間のまともな仕事がよかろうといくつか仕事を紹介してくれることに。
その中の1つが、私の地元にあった木材会社。
そこはヤマハにピアノの材料を収めている会社との触れ込みで、この当時はかなり羽振りが良かったのだ。
結局は地元の親戚等の紹介でその会社にお世話になることに。
関東から北海道へ戻ることに
私が勤めた会社は今はもう倒産してない。
倒産してからおよそ10年が経つ。
あの当時の新聞だと、地元の新聞だったが第一面に乗ったので、かなり大きな事件として扱われた記憶が。
しかし自己破産して倒産なので、何の言い訳も弁解もできないだろう。
私も含めた従業員およそ100人ほどと、その家族は次の日から路頭に迷うことに。
私が北海道に戻ってからおよそ30年が経っていた。
既に私は最初の結婚の相手とはご縁がなく、一人暮らしでずっと暮らしていたので、大変なことになったとは思いつつも、気分的にはずいぶん冷めていたと思う。
実は、会社が倒産したとき、私の母親が末期の膵臓癌で闘病中で、倒産して3ヶ月後にはその母親を見送らねばならなかった。
様々な手続きなど、また何よりも葬式等の采配を取らなければならなかったので、その当時は、会社が倒産していて身軽で良かったなくらいにしか考えていなかったと思う。
その時からすでに、10年経った今、私もずいぶん歳をとって、身の回りの状況もずいぶん変化した気がする。
思えば大した事もしないまま、ただ忙しいとだけ感じるままにドタバタと歩んできた人生のように思う。
振り返って感じるのは小田急線の百合ケ丘あたりに住んでいたあの2年3年が、私にとってはほとんど暗黒の時代で、よく生き残って来れたなと。
犯罪などに手を染める事はなく、貧乏なことだけは残念だったかもしれないが、ここまで生き延びて来れたことに少なからず感謝の気持ちが湧いてくる。