くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

麒麟がくる アナザーストーリー

 

最近始まった大河ドラマだが、ベーシックな戦国時代のしかも本能寺の変あたりを題材にした物語。

描き方に興味があって拝見しているが、

実はこの戦国時代だと、男尊女卑の考え方がとても強くて、歴史的に重要な役割を果たした女性が多い割には資料があまり残っていない。

ちなみに、本能寺の変を起こした明智光秀だが、彼の娘 は後にキリスト教に改宗して細川ガラシャと名前を変える。

正直言って、幸せとは程遠い人生だったが、日本の歴史の中では外せない人物だと思うので、少し調べてみることに。

目次

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肖像画は残っていない あくまでも想像図

父親は謀反人明智光秀

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光秀は落武者借りで命を落とす

父親はあの有名な明智光秀

本能寺の変を起こした事は歴史的な事実で、それ以降数百年を経て日本には明智光秀は天下の裏切り者としての負のイメージが常について回っていた。

しかし最近の研究で歴史的な事実が新に書き加えられつつある。

本能寺の変に至る様々ないきさつが詳しく調べられまた文献なども研究され、今までとは違った歴史観が発生しつつあるのだ。

その中で始まった大河ドラマ

麒麟がくる

大勢の人が見ているだろう、この時代を扱ったドラマでかつて面白くなかったドラマはなかったので。

しかも、今回新しく解釈が加わることによって、今までとは違った明智光秀像が描かれるように期待されている。

さて、明智光秀は愛妻家としても知られていた。

最初に自分の妻と結婚しようとしたときに、その妻は運悪く天然痘にかかってしまい顔にいくつか治った後の傷跡が残ってしまった。

そのことを気にした親たちがこの煕子ではなく、妹のほうを進めようとしたのだ。

光秀はそのことに激しく反発。

私は煕子の真心を気にいったのだ。

煕子以外とは結婚しない。

そう言って結婚に至ったいきさつがある。

その愛妻家の光秀の三女がお玉

後の細川ガラシャとなるわけだ。

明智光秀の三女

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こちらも想像図 お玉像

テレビの特集番組でも拝見したが、絶世の美女だったんだそうだ。

大抵、皆さんそういう言われ方をするとちょっと興味が湧いたりして調べてみたくもなるんだが。

明智光秀自身がかなりのイケメンで、非常に周りからの信望も厚かったことを考えると、 その娘なので容姿は概ね見当がつく。

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細川忠興の正室となる

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細川忠興 勇猛果敢で多くの手柄を立てていた

細川忠興の正室となるのは12歳の時

同い年だったと伝わっている。

そして、16歳のときに最初の子供を設けている。

また翌年にも子供を設けていて、夫婦仲はとても良かったようだ。

しかしこの時代の大きな特徴として資料があまりにも少ないことが挙げられる。

大体まともな肖像画が残っていないのもその大きな原因。

今、研究対象になっているのは、周りのものの書いた記述の中から当時の生活を想像すること、それとテレビの番組の中で紹介されていたのは本人直筆とされる文面

専門家たちが盛んに説明していたがびっくりするほどの達筆なのだそうだ。

つまり、類まれな美人であると同時に、驚くほどの才媛だったのだろう 。

明智光秀から丁寧な教育を受け行っていたことがうかがわれる。

有名な本能寺の変はこのお玉が20歳の時

この時すでに2人の子供がいて、3人目をお腹の中に妊娠中だった。

明智光秀は直ちに謀反人のレッテルを貼られたがために、細川家は明智光秀に手を貸す事はなかったのだ。

周りの有力な武将から助けを得られなかった光秀はおよそ10日後に羽柴秀吉によって打たれることになる。

ちなみにこの時、お玉は父親の罪を受ける形で幽閉されてしまう。

このお玉を幽閉から解いたのはほかならぬ秀吉である。

秀吉は、お玉が美人であるとの噂を聞きつけ面会したい旨を申し出たそうだ。

それに対するお玉の答えは

父の敵と面会するつもりはありません

もし会えば、必ず仇討ちをするでしょう!

さすがの迫力に秀吉も面会を諦めたそうだ。

しかし、細川忠興とは復縁することができたのだ。

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細川ガラシャとして生き、自刃する

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カトリック玉造教会の記念像

 この時代、ヨーロッパからは伴天連と呼ばれる西欧人が数多く日本にやってきていた。

そういった中でキリスト教の布教も盛んに行われるように。

さて、キリスト教の斬新な教えは多くの信者を生み出すこととなり有名な戦国大名でも改宗した例がある。

細川玉もその1人。

きちんと洗礼を受けて細川ガラシャと名乗ったのだ。

ちなみに彼女が有名になったのは、関ヶ原の例の戦いの時に夫は徳川方について妻と離れ離れになっていた。

夫が関東に出生している間に大阪在住のお玉は人質として大阪城に収監される可能性が出てきたのだ。

実はこの時夫の細川忠興から命令が出ていた。

もし、妻の身に何か起こるようなことがあれば、武士としての体面を保つために自害してはて、部下たちも皆切腹するようにとの申し付けだったのだ。

実は、ガラシャはこのような夫の命令を忠実に守ったと言えるだろう。

石田三成はなんとしても人質として欲しかったので、細川家の屋敷にまで軍勢を進めたが、その軍門に下ることなくガラシャは自刃して果て、家来のものに薙刀で介錯させたと聞く。

なんとも乱暴な話だが、武家の妻としての教えをきちんと守ったとも言える。

また亡骸を的に渡すわけにはいかないので屋敷を爆破して火事を起こして全てを焼き払うようにも指示していたようだ。

屋敷が完全に焼け落ちた後、イエズス会の宣教師たちがガラシャの残されたわずかばかりの遺骨を集めて菩提を弔ったと聞いている。

多分日本のカソリックの信者の中では歴史を通じても1番有名なのがこちらの

細川ガラシャ

明智光秀、つまり謀反人の娘として世の中から多くの避難とそしりを受けながらも、決して短絡的な生き方をせず、その命と家系を守り抜いたことで今日にその名を残している。

ちなみに内閣総理大臣を務めた細川護煕はこの細川家の末裔にあたるが、細川ガラシャと血はつながっていないようだ。

細川ガラシャの直系はおよそ7代後に全て途絶えてしまった

始まったばかりの麒麟がくる

私の中では光秀の娘たちはアナザーストーリーと言える。

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