今からおよそ50年ほど前、初めてバッハのトッカータとフーガを聞いてからバッハにはまり続けてきた私は、無類のバッハファンと言える。
ただ単純に聞いて心地よいと言うだけではなく、どうしてこんなにも心惹かれるのかを何度も考えてみて自分なりに考察。
やはり、バッハでしかなしえなかったことも多かったのではないかと改めて認識。
バッハの音楽はポリフォニック音楽
目次
この当時の音楽の主流は、フーガに代表される複数の旋律を巧みに掛け合わせて曲を構成するやり方。
バッハはこのフーガの技法において 他の追随を許さないとされた。
バロック期の作曲家でありながら、分類上は古典派の作曲家とされる。
バッハヘンデルから始まってベートーベンに至るまでが古典派と分類される。
つまり、バッハ、ヘンデル、ハイドン、モーツアルト、ベートーベンである。
ここで音楽の特徴的な形態が分かれてくる。
バッハヘンデルの時代だと、音楽は旋律を複数掛け合わせる複旋律音楽が主流だった。
ハイドンが出てくるとその辺が少し曖昧になってくると思う。
モーツアルトに至ると、旋律を複数掛け合わせることはなく、主旋律となるべく1つのテーマを決めれば、他はその伴奏で盛り上げることを専門に振る舞う。
この形態をモノフォニック音楽と呼ぶようだ。
モーツアルトは友人から請われて、旋律を複数組み合わせる複雑さでなく、もっと単純な誰もが口ずさめるような曲風で作曲してほしいと依頼され、その希望通りのものをこしらえると、大衆には大受けだったという経緯がある。
彼以降 主な作曲家の音楽はモーツアルトのようなモノフォニックなものが主流となる。
モーツアルトの最後の作品とされるレクイエム。
主旋律となるべき流れがきちんとわかりやすく描かれているのだ。
対するバッハの複旋律音楽ではどうだろうか
聞いてわかる通り声楽曲なのだが旋律が複数存在することがよくわかる。
バッハの作曲は一見してはわかりやすく聞こえるが、実際は作り手の側は綿密に計算して旋律を複数重ね合わせていくのである。
複数の旋律を操る音楽


複数の旋律を合わせる音楽は耳には心地よいが、作り手は大変な労力を必要とする。
音楽的な値打ちから考えると、このようなフーガを始めとする複雑な技法はより高級な気がしないでもないが、しかし実際どうだろう。
労力ほどに効果が上がっているのかどうか。
対位法を用いた音楽がどれほど聞く側に理解されるだろう。
わかりやすい音楽を作曲することに転向したモーツアルトが、観客からの拍手喝采で、モノフォニックな作曲法にウェイトを置き始めたのは、このようなことを多分に意識していたのではないか。
バッハやヘンデルの時代では、観客におもねるような作曲方法はほとんど取られることがなかったので、大抵の場合は昔から踏襲された技法によっていたようだ。
バッハの時代の音楽は、教会とは切っても切れない関係にある。
それは、毎週日曜日に行われるミサで、音楽の果たす役割がとても大きいからだ。
このときのミサでは、必ず讃美歌の新しい作品が発表され、様々な音楽シチュエーションがミサ全体を盛り上げるべく、貢献していたのである。
バッハが、多くの場合このミサに演奏される曲の作曲を提供していた。
もちろんそれ以外の自由作品もたくさん作ってはいるが、ミサのための作曲や演奏はバッハにとって必要欠くべからざるものである。
しかしながらそうはいっても、音楽の様々なジャンルの中でバッハは楽譜を今使われているような様式に統一したり、また様々な楽器のそのポテンシャルを引き出すべく、伴奏なしの曲をたくさん作曲している。
バッハの代表曲は言わずもがなオルガン曲に集約するが、それ以外にもバイオリン、チェロ、チェンバロ、フルートなど様々な独奏楽器に楽曲を作っている。
ポリフォニック音楽の頂點にいたとされるバッハであるが、その音楽的な精神はきたるべきモノフォニックな世界を多分に意識していたのではないか。
何よりも1人のミュージシャンとして音楽そのものの可能性を限りなく追求していた1人だったのだろう。
それ故の様々なチャレンジだろうと勝手に納得している。
無伴奏の作品を多数残す
Isaac Stern playing Bach's Chaconne in D minor for solo violin Single File
バッハの無伴奏バイオリン曲シャコンヌ
バイオリニストアイザックスターンの名演である。
パブロカザルスの名演である。チェロの申し子と呼ばれたスペイン人。
バッハ 無伴奏Flのためのパルティータより第3,4楽章 E・パユ(fl)
はっきり言うと、フルートは単音以外絶対に出せない楽器である。
他のソロ楽器とは決定的な差があるのだ。
しかし、この曲を聴けばわずかなフレーズを聞いただけですぐにバッハと想像できるぐらい、バッハらしさに満ちあふれているではないだろうか。
多分音楽の果たすべき役割は、その音楽形態にはよらないことが証明されている気がする。
バッハが人類史に残る大作曲家である所以がこの辺だろうと確信するにいたる。
以前バッハに関して私なりにまとめた記事がある。
この記事でバッハの存在理由を自分なりに考えてみたのである。
しかしこの程度のことで大バッハが語りつくされるはずもなく、日々、耳から入ってくる様々な音楽の中でバッハの存在価値は疑いようもなく。
常日頃から考えていたことを、(感じていたこと)さらにブログにアップすることに。
音楽はまさに聞き手の側と演奏する側のその中間位の位置に感動があるのだろうと認識する。
どの音楽を聞いても感じる心は概ね1つ。
私はバッハを聴く心も、ピアフやクラプトンを聞く心も同じだと思っている。
その中で考えてみた事柄。
旋律を複数操る作曲家がどうして単音しか出せない楽器を用いて作曲したのか、そのことについていつも感心していたので、そのことに対する私なりの考察でした。