日本史の中でも最大のミステリーとされる本能寺の変。
要は、明智光秀が織田信長を討ち果たした事変と言える。
昔から様々な原因が取り沙汰されてきた。
最新の記事を見ても、
前々から計画していたこととか、
過去の恨みつらみが鬱積していたとか
様々なことが理由として語られてはいる。
そのどれもが聞き覚えのあることだが。
私なりに検証してみたが、どうやらそれとは違ったようで。
実は、この間テレビで見た番組では今までとは全く違った視点でその原因を語っていたのだ。
目次
明智光秀に起こっていた健康不安
実は番組では光秀に重大な健康被害が起こっていたことを考察していた
それがレヴィー小体型認知症。
最新の科学的な考察がなければ到底考えつかなかった見解だと。
レヴィー小体型認知症は私もよく知っているが、
この病気はパーキンソン病とセットと考えて良いのだ。
要するに手足が震えたり、あるいは動きが止まってみたりということがよく起こる。
そして、この病気の大きな特徴は幻視が起こること 。
つまり、幻のようなものをしょっちゅう見るのだ。
このことを指して最も辛い認知症と呼ばれることもある。
光秀に関わる様々な資料を分析するとこのレヴィー小体型認知症を疑わせる確固たる証拠がいくつか挙げられる。
⒈長篠の戦いで功績のあった徳川家康のおもてなしの役を言いつけられたが、その時贅を尽くした料理を供したが、耐えられないような悪臭を発していたと言うのだ。
そのことを信長に激しく問い詰められ、しかし、光秀はその匂いに気がつかなかった。
⒉笹で巻いたちまきを包んである笹の葉を外さずにそのまま食べた。
⒊およそ6年前に腸に関わる重病で半年近く床についてしまった。
この3つの事柄は最初の2つがレビー小体型認知症の特徴的な症状らしい。
においがわからなくなり、しかも正しい判断行動が取れなくなる
その原因となるのが腸で起こった病気だが、光秀の場合、6年前に体調を崩している。
これはウィルス感染で、このウィルスがもとでレヴィー小体が腸内で作られ、それが脳内に溜まってくるとレヴィー小体型認知症を発症するとされる。
実はこれらの記述があまりにも的を得ているので、番組の中のドクターは
“おそらく間違いなくそうだったと思います”と断言していたのだ。
レヴィー小体は、体内に普通に存在するタンパク質がウィルスなどが原因で変化してできるとされる。
光秀が半年近く床に伏している間、ここでレディー小体がたくさん作られてしまって、それが徐々に脳内に溜まったのだと分析していた。
確かに本能寺の変の直前は光秀の行動にもいくつか疑問を呈するようなおかしなことが目立つようにも言われている。
特に細川家の記録では、光秀が何か言いたそうに涙ぐんでいたと記述が残っているのだ。
こういった事は何を意味するのだろうか。
いつも光秀と対峙していた信長や秀吉はわずかな異変にも気がついていた可能性が高い。
特に信長以上に秀吉は自分自身のライバルである光秀のおかしな行動になにがしかの疑問を持ったとしても全く不思議ではない。
秀吉は本能寺の変の後、大返しで中國地方から10日ほどで京都に舞い戻っている。
あらかじめ準備できていたともっぱらの學者たちの意見だったが、その元になった判斷は、やはりおかしな光秀の行動にあったと言われれば妙に納得してしまうのだ。
信長と光秀の密着な関係
本能寺の変のちょうど1年前、光秀は信長のことを最大級の賛辞で褒めちぎっているのだ。
自分がどれだけ信長に重く用いて引き立ててもらったか。
少なくとも1年前まではまともだったことが見てとれる。
しかし本能寺の変の直前になると、信長自身は光秀に様々な指令を出している。
まず家康の接待の失敗はさておき、光秀の所領である丹羽地方を そのまま引き上げられているのだ。
つまり自分自身の土地を取り上げられると言うこと。
そして、未だ敵方の土地である中国地方に所領を与えるとのこと。
これは絵に描いた餅のようなものだし、何よりも中国地方で秀吉の手伝いをせよと言う言い分は、すなわち競争相手である秀吉の下に位置することを強制される。
信長の光秀に対する指示は辛辣で光秀のプライドを完膚無きまでに叩きのめしたと言われていた。
ここまでは今までも知られていたことだが、最近の研究では光秀ほどの人格者がそういったことで発作的に本能寺の変を企てるような短絡的な事はしないはずだというのが専門家が口を揃えて言っていた意見。
しかし今回のレヴィー小体に関わる様々な考察をしていくと、どうやらそうでもないことが語られていた。
少なくとも認知症の1種類を発症していたので、まともな判断はつきにくい状態にあったことは間違いないので、そのわずかな光秀の中の異変を他の武将たちが気がつかないこともなかったと言える。
結果としては様々な条件が重なり、信長は光秀の本拠地からわずか20キロほどの距離にいて、しかも跡取り息子の信忠とほぼ同じくらいの位置関係にいて、しかも護衛の兵士たちは驚くほど少ない。
これは、もう討ってくれと言わんばかりのような状態。
本能寺の変に至るまでの心の動き
本能寺の変ではその直前に至るまで光秀は信長に酷使されていた。
このブログの中ではその条件として光秀がまともな反応ができているとの設定が前提である。
しかし、今回私が得た情報では、まともな反応はできなかったとしているのだ。
決定的な差と言える。
番組の中では語られていなかったが、思うに光秀の異変を周りの武将たちがそれとなく察していたフシがある。
やはり何か異常があると考えた方が自然なような気がしてしまう。
歴史の中での真実はどこに
本能寺の変の当日、夜中に自分自身の坂本城を出発した光秀の軍勢。
京都に向かって、右へ行けば秀吉のいる中国、左へ行けば信長がいる本能寺。
そこまで来たときに光秀は一行を一休みさせている。
実はそこら辺で3時間の空白時間があることが最近の研究でわかってきているのだ。
そしてこの日は、6月の2日だが、どうやら新月で月明かりなるものが全く存在しない真っ暗闇の中での行軍だった。
実は、暗闇は心の病気を抱えている者にとっては怒りや憎しみを増幅させる格好の土台となるようだ。
坂本城を出発した時、光秀は、少しずつ憎しみをたぎらせたに違いない。
特に一休みしてから後は本能寺に向かってまっすぐ進んだのだ。
味方の軍勢に敵が信長である事はどうやら知らせていなかったと聞いている。
軍勢はお殿様の言うことに素直に従って攻めいるのみ。
本当に側近の家来だけが光秀が戦おうとしている相手が信長であることを知らされていただけ。
認知症で精神疾患を発症していた光秀は、ほぼ犯罪者と同じような考え方を持って信長への復讐心に燃えて行軍したと分析されていた。
決して行き当たりばったりの作戦ではないとしつつも、信長と信忠が手薄な軍勢で両方同時に存在するチャンスはそう簡単には巡ってこない。
今だ‼️
そう思って行動したに違いない。
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光秀のその後
江戸時代になってから明智光秀は裏切り者のレッテルを貼られ、歴史的に見ても反逆者として決して良いイメージではなかっただろう。
しかし、今はどうやら全く違う評価がされつつある。
まず明智光秀は稀に見る愛妻家。
自分の妻を心の底から愛し家族を愛していた。
そして、彼の残した文献から分かる事は、自分自身の家来、あるいは領民など心の底から大切にしていたフシがうかがえる。
彼は、図らずも信長の命令によって比叡山焼き討ちなど心にもないことを散々やってきたが、その事は彼自身は随分と罪に受け止めており、そのための罪滅ぼしみたいなことを盛んにやってきているのだ。
今回の大河ドラマ 麒麟がくる では、そうした光秀の人となりも語られると聞いている。
さらに今回の大河ドラマではしっかりとした歴史家の考察もついている。
その方は番組の放送開始とともにYouTubeチャンネルを開設された。
特集番組などでしょっちゅう拝見する方なので知っている人もいるかもしれない。
歴史の中に埋もれて隠されてきたことが日の目を見て、きちんと理解される事は、多分後世に生きる者にとっても大変な福音になるはず。