昨日から始まった“ちむどんどん”。
昭和39年のごく普通の沖縄の様子が描かれる。
主人公比嘉暢子は小学校5年生。
大家族の日常の暮らしはどうなのかな?
両親と、姉妹たちが4人。
今日の物語で語られていた家の仕事はさとうきび農家。
今日登場してきたのは、主人公の家族のほかに豆腐屋さん一家。
それと東京からやってきた親子連れ。
それぞれの家族がどんないきさつで日々暮らしているかが語られた。
沖縄は今でこそ記憶から薄れてはいるが戦争中の凄まじい体験が、過去から未来へと語りつがれている。
沖縄が抱える苦しみや悲しみの1部が見えたような。
目次
昭和39年(1964年)沖縄の暮らし
当時沖縄は日本でありながら実際はアメリカ統治下にあった。
もともと沖縄はそれほどたくさんの産業があったわけではない。
昔からあったのは
さとうきび栽培とか、バナナパイナップルなどの果樹栽培。
それと漁業ぐらいだったろうか。
基本的には1時産業で成り立っているような地域だった。
今は観光などがそれらの産業に加わることに。
沖縄ではアメリカの経済や社会の仕組みがそのまま転用されていた。
貨幣はドル、そして道路は右側通行。
このエピソードは、私も記憶にあったので昨日のブログで紹介しておいた。
結論から言えば住んでいる人たちの暮らしぶりは決して豊かとは言えなかったのだ。
そんな生活の様子が今日のエピソードで家族の交流を舞台にしながら描かれていた。
沖縄のご近所さん
沖縄に限らず、日本では近所付き合いはとても大切とされる。
今でこそ、隣近所のつながりは希薄にはなっているが、田舎ではまだ町内会がそれなりに機能していて、年間を通じて様々な行事なども催される。
物語の中で紹介されていた砂川豆腐屋さん。
こちらはお母さんが病弱で、長男が2人の妹弟を世話しながら豆腐を売って暮らしていた。
今日あたりから、登場人物それぞれについて紹介がてら語られることに。
この豆腐屋さんはどうやらお父さんはいないらしい。
豆腐を売ることで生計を立てているので、長男は学校にもいかず、家で仕事を。
子供の頃の記憶をたどってみると、私の住んでいた北海道でも、家の仕事が忙しくて学校休む子供は少ないながらいたような気がする。
特に農家では稲刈り時期は猫の手も借りたいほど忙しくなるので、同級生の男の子はその時期学校を休んでいたと思う。
沖縄の人が思う謝罪の心
物語の中で語られていた、東京からやってきた青柳さん親子。
彼らは全国を歩きながら戦争中の体験を後世に語り継ぐ責任を感じていた。
比嘉家のお父さんも、中国戦線をかろうじて生き残ってきた過去が。
大人たちの世代は闇市なども経験していて、戦争中の体験をほとんどトラウマに近い状態で抱えている。
そして語っていた。
沖縄で戦争中に起こったことを後世にきちんと伝える責任があると。
沖縄上陸作戦の時、アメリカ軍は沖縄全土を焼け野原にするが如く火炎放射器で焼き尽くした。
この当時、沖縄の洞窟などに逃げ込んだ一般市民も多かったが、火炎放射器で焼き殺される人たちもずいぶん多かったような。
今では伝聞でしか伝わってこない様々な事実。
しかし、沖縄に住む人たちは過去の歴史を未来に対して語り紡いでいく責任があるのかもしれない。
日本人はどの地域に住んでいても、多かれ少なかれそういった過去の遺産を受け継いでいく責任を有している。
暢子の母
青柳さんのお父さんとの話で比嘉家のお母さんは、昭和19年の沖縄空襲の生き残りであることが発覚。
彼女にとっては、忘れることのできない辛い体験だったんだろう。
夜子供たちが寝静まった後で1人縁側で泣きじゃくる姿が映されていた。
そして、お父さんがそっと肩に手を回して抱き寄せる。
主人公の暢子はみてはいけないものを見てしまったと物語の中ではナレーション。
両親の子供時代の話などは、まだ正確には聞いていない可能性も。
そういったことも含めて、沖縄がどういった歴史を紡いで今に至るかはこれから詳しく語られるに違いないのだ。