秀吉が亡くなった後、朝鮮出兵の後始末は、困難を極めた。
受け持ったのが石田三成。
しかし、彼は残念ながら帰還した武将たちの了解を得るには至らなかった。
その結果責任を取らされることになる。
この時歴史には命を狙われた三成が徳川家康のもとに逃げ込む事件も起こっている。
物語の中で語られた登場人物たちそれぞれの胸の内が克明に描かれていた。
三成の後始末を引き継いだのが家康。
政の確かさは間違いのないもの。
そしてこの頃から
徳川家康を指して世の中の人は、「天下殿」と呼ぶように。
家康本人もまんざらではなかっただろう。
実質的な政治を自ら行うわけで、天下を取ったも同然だと言える。
しかしこの時代、必ずしも徳川家康に迎合する武将ばかりではなかった。
家康の政治力に反発するものが大勢いたのも事実。
物語で描かれた家康は歴史に伝わる狸親父そのもの。
本田正信とのやりとりで、その辺は詳しく語られていた。
そして今日のどうする家康では関ヶ原の戦いの直前の様子が語られることになる。
時代は、1600年。
歴史では、関ヶ原の戦いのあった年して誰もが知るところ。
今日の物語ではその数ヶ月前の様子が詳しく語られ、最後は関ヶ原の戦いまであと53日と言うところで物語は終了。
見て感じるのはこの頃の徳川家康が間違いなくトップに立っていながら、実際は多くの懸念材料が周りに散らばっていた。
目次
石田三成の謹慎処分
石田三成が失脚したのは三成本人に落ち度があったわけではない。
朝鮮出兵の過ちのすべては豊臣秀吉に責任が。
征服欲に我を失ってしまった愚かな老人の無謀な振る舞いでしかなかった。
通りいっぺんの後始末では納得できないものが出てくるのも当然のこと。
戦場では命をかけた戦いが果てることなく続いていた。
そこから帰ってきた者たちをどのようにねぎらうのか?
石田三成では遠く及ばなかった部分があるのも事実。
そして、この時豊臣政権の後を任されたのが五奉行と五大老。
実際に政務を行ったのが5奉行。
五大老が補佐する形をとっていたものと思われる。
家康は五大老のトップでその実力も充分。
石田三成は政治的には失脚した形になった。
さらに、徳川家康を敵視する者もいてその対応も家康らしさが出たものと思われる。
大野治長らが企てたとされる家康暗殺計画。
その時の処分も家康の評価を大きく高めるものとなった。
政の中心は家康に
様々な政をこなすうちに、家康の評価は否が応でもでも高まっていく。
この時の天下のトップは豊臣秀吉の息子豊臣秀頼だったが、徳川家康が大義名分を持ってトップにいたと思われる。
おそらくだが、徳川家康はこの時既に自分がとって変わることを確信していたはず。
物語はちょうど1600年でこの時、既に江戸城は完成している。
これは徳川政権の象徴とも言うべきものだが豊臣を意識して、徳川家康は政治の主導を大阪で行っていた。
また、大阪で政治を行うにあたっては様々な敵対勢力も意識しなければならなかっただろう。
歴史に伝わる徳川幕府のあり方とは明らかに違っていたと言える。
家康は争いを避ける形で、上杉景勝の上洛を促していた。
しかし、流れとしてはどうしても景勝成敗に傾いていたと言える。
感情表現が激昂する形で作られているので、上杉景勝のキャラクターが果たしてこうだったのかと不思議に思う部分も。
また歴史に伝わる直江状も登場していたが、腹を立てていたのは、家康本人と家康の側近たちだった。
この書状がきっかけで家康は会津出兵を決めるのだ。
大阪
大阪では案の定石田三成が挙兵。
面白いと思うのは、この時三成に何人かの武将たちがつき従っていたこと。
毛利輝元らになるが、彼らの描き方もなかなか面白いと思う。
豊臣秀吉に恩義がある素振りを見せながら、実際は徳川家康に従いたくなかっただけのことのように描かれている。
物語はどこまでいっても、主人公徳川家康が際立つように描かれる。
反旗
徳川家康が会津に向けて出発したことがこの後の関ヶ原の戦いに至る1連の流れのきっかけになる。
この時家康は伏見城を離れたくはなかったのだ。
そしてどうやら留守の間に、石田三成が挙兵することもうすうすわかっていたような素振り。
そのために伏見城を守るために鳥居元忠を置いていくシーンなどが詳しく描かれた。
歴史を知っているものなら、鳥居元忠はここで討ち死にすることになるのだ。
物語は、視聴者が歴史的な事実を知っていることを承知で脚色している。
家康も元忠も三成が大群を率いて攻めてくることを承知しているのだ。
そして、元忠がここで死ぬしかないことも。
今でも歴史残る位でしかも関ヶ原の戦いの前哨戦とも言えるべき戦になる。
石田三成はこの後数ヶ月後には斬首されて、京都の六条河原にさらされることになった。