今週のお題「卒業」
この年になってみるとおよそ、学校だの教育だの、そういったことには無縁のように思ってしまうが。
もちろん人並みに学校に通って、卒業したこともあるので、自分自身のこととしてもう学校に行く必要はないなと言う気持ちはもちろん持っている。
しかし、卒業って何かからの出発を意味する言葉だよね。
考えようによっては、私は 今のこの人生そのものが、何かの勉強のような気がしないでもない。
そうすると一般通念として卒業は何度も経験したが、自分の人生を卒業するには至っていないのではないかと思えるのだ。
そうした広い意味で卒業を考えてみたい。
目次
学校からの卒業
小学校に上がったのが昭和35年だから、一体どんな昔のことになるのかなあ。
日本海側の北のほうの本当に小さな集落に住んでいたので 、学校と言ってもそれはそれは規模が小さかったよね。
小学校が3学級。
中学校が1学級。
要するにね、
小学校は1年と2年、3年と4年、5年と6年 で3学級。
中学校は1年2年3年ともに一まとめ。
こんな感じの学校が私の時代、田舎ではちゃんと機能していたのだ。
遊ぶ所のなかった私は小学校に上がる前から小学校へは遊びに行っていた記憶が。
この学校には小学校2年まで在籍して、2年生の夏休み以降、隣のちょっと大きな街に転校。
今までは、授業といっても時間割は半分半分で先生がやっていたので、授業時間の半分は自習だったものが転校してからは、まともに1時間勉強するのでちょっと不思議な気がしたもの。
そういった小学校時代を卒業してから地元の中学に進学。
ここではなぜか1学年が2学級だった。
それなりに生徒数も多かったと記憶。
地元のあちこちの小学校がいくつか、いくつかまとめてここの中学校に進学していたと記憶。
その後、隣町の留萌の高校へ進学することとなったのだ。
私が、地元で学校らしきものに通ったのはここまで。
大学入試ももちろん経験をして一旦は入学したのだが、アルバイトその他の方が自分の中ではお気に入りだったもので、1年ぐらいはまともに通ってはいたのだが、大学は2年でやめさせていただいた。
自分の中では大学に行って勉強しましたとはとても思っていないので履歴書には高卒としか記入しなかったと記憶。
在学中の記憶は小学校から大学に至るまでその時の校歌の1節2節位は今でも覚えていて歌えること。
音楽はとてもお気に入りだったのだ、もちろん今でもだが。
私は5つの校歌を知っているが、私の中で1番名曲だなと思うのは高校時代の校歌である。
まさかYouTubeでヒットするとは思わなかった。
私がよく知る出身校の校歌。
こんなふうにリズミカルには歌わないんだよね。
この曲はね、私が所属していた吹奏楽部の伴奏でもっと静かにしとやかに歌うんだよね。
さてインターネットをやっていてちょっとカルチャーショック。
まさかこの思い出の曲に出会えるとは思ってもみなかったので。
出会いもあり別れもあり
生まれてから様々な出会いを経験するが、当然別れも経験するわけだ。
そのすべては経験値としてその人の人となりに蓄積されていく。
もちろん学校での出会いや別れもあって卒業も経験したが、私は会社勤めもした経験があって、その会社は図らずも勤続30年を過ぎたところで見事に倒産した。
またとても恥ずかしいことだが(私の年齢ではそう受け止めている)離婚も経験。
自分の人生の中でそれなりにいろんな状況で勉強をさせてもらったので、その都度卒業式みたいなものはなかったが、卒業してきたことも多々あるのではないかと考える。
学校と言う一般的な組織で考えるならば意味はかなり狭められるが、私たちは好むと好まざるとにかかわらずこの世に生まれて人としての一生を送る。
この今生きている一生こそがある意味学校みたいなもの。
もちろん時間割もないし通うべき学校だってあるわけではないが、間違いなく所属していると。
この学校は、驚くほど自然で、学校であることを意識させないのかも。
最近になってやっとそう思えるようになってきたのだ。
人生で学ぶべきもの
人生長く生きてくると還暦で1つの節目を迎える。
その前に男女ともに厄年も迎えているのだがうんがよければ還暦過ぎまで生存することができる。
しかしながら、還暦を過ぎてもまだまだ祝うべき事柄がたくさんあるようだ。
写真の中に書いてある大還暦はおそらく120歳を指すのでは。
現在ではここまで生きられる人はほぼいない。
東洋の諺の中に長生きを推奨する言葉がある。
長寿とはすなわち100歳以上125歳のことであると。
100歳以上生きて初めて長寿と呼べるんだそうだ。
私は今還暦を過ぎた位の年齢だが、とても百歳なんて生きれる気がしない。
大体あと10年だってどうだかなぁと?がつくのだ。
今の人生学校の学び方に問題があるのかもしれないね。
結論から言えば、自分の先行きに不安を感じてしまうのはそれは自己責任と言うもの。
これから先の人生は潔さだけが自分自身のポリシーになりそうだ。
人生の卒業式
普通人は死ぬと、死亡診断書を書かれてそれをもとに死亡届けを提出する。
そうすればお通夜があって葬式があってそして火葬場で荼毘に付されることに。
お葬式は正直なところ忌み嫌うものとして世の中に広く知られている 。
しかし私の経験値から見て、よほどのことがない限り葬式に悲しみの気持ちを抱くのは半分は当たっているが、半分は違うと考える。
これは捉え方の問題だが、亡くなった人にとっては人生の卒業式と言えるのでは。
葬式は、どちらかと言えば死んでいった者に対するものよりは、生き残った者へのねぎらいの意味の方が強いのでは。
全く何もなしにはならないと思うが、生き残った者たちの最後の心の整理をつける意味での葬式だと言えるだろう。
もしここで新たな意味を付け加えるのであれば
葬式=卒業式として新たな旅立ちをする者に祝福の気持ちを込めるのもありだと思う。
少なくとも次の世界への出発を大いに祝ってほしいも。
最近になってそんなことを考えるように。
私にとっての卒業は若い頃とは全く別な意味に置き換わってきているのかも。
しかし、いい意味でも悪い意味でも、前に進むための一里塚と言えるのだろう。