くわちゃんの独り言

音楽や映画が大好きな爺さん。長年の経験から知りえたことを発信します。

エール振り返り 物語全体を総括してみる

 

ずっと朝ドラを見る生活を続けてきてずいぶん経ったなと。

今までも記憶に残るドラマは何作があったと思うが、特に小樽のニッカウヰスキーの創始者竹鶴正久を描いたマッサン。

そして北海道を題材にしたアニメーション制作のなつぞら。

この2つが記憶の中に強烈に残っていたが、

今回のエールはその記憶を塗り替える作品だった気がする。

中学校の頃から音楽が本当に素晴らしいと思うようになってすでに半世紀以上。

自分自身の歴史とも被るこの物語を見終わってみると本当に納得させられることが多かった。

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このシーンは一年前とつい最近のものとで2度撮影されたと聞く

目次

作曲家古関裕而さんと金子さん

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ネットでよく見かけるご夫婦のプロフィール

言わずと知れたモデルとなったお二人。

1909年生まれの裕而さんと12年生まれの金子さん

今回の朝ドラエールはその2人のエピソードをほぼ丸写しの形で踏襲していたね。

何せ結婚した時が夫21歳妻19歳

熱心な文通をした後、一度会っただけで意気投合。

そのまま駆け落ち同然で結婚したと聞いている。

お互いに運命を感じたんだろうか。

エールの中でもその辺のいきさつは初期の頃の回で詳しく語られていた。

主に音楽家として古関裕而さんの業績がエールの物語を支えてきたことには間違いない。

生涯に5000曲以上の作曲をこなし、またその作曲方法も彼流のやり方で普通の人とはかなり違っていた可能性が高い。

私もこのブログで何度か紹介したが、エールの中で描かれている通り、楽器を使わずにそのままイメージを楽譜に書き起こすやり方で行われた。

息子さんの当時の様子を語ったインタビューがある。

父の仕事場は驚くほど静か。

黙々と楽譜に向かって音符を描き続ける。

たいていの作曲家や編曲家は楽器を使って作業を行う。

多いのは鍵盤楽器だろうか。

後はギターを使う人もいるだろう。

最近面白いなと思うのは楽譜を読めない音楽家が意外と多いってこと。

今はテープなど、直接音を録音する技術が格段に優れていてそのまま書き写す必要もなく音を録音できる。

サザンの桑田佳祐さんなど楽譜を読めないことで有名。

古関裕而さんの時代は楽譜こそが全てだった。

楽譜を見た瞬間に音楽を奏でることができ、また浮かんだメロディーをそのまま文字を書くように楽譜に書き起こすことが普通に行われていたのだ。

こういった作曲家は、ただし少数派であることも事実。

私の知る限りではベートーベンがそうだったと思う。

すべての頑張る人へ送るエール

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作曲家人生の集大成 東京オリンピックマーチ

音楽家として身を立てるようになってから目標にしてきた事は誰かを応援すること。

つまり、主人公は必ず応援する人を想定して作曲していた。

戦前や、戦時中、戦後を通して人々に贈るエールとして作曲し続けたのだ。

彼の作曲人生の集大成とも呼べるのが東京オリンピックマーチ

オリンピックが1964年で、作曲は前年と言うことに。

このときの年齢は54歳。

音楽家として最も油が乗り切った頃だとも言える。

ドラマの中では、オリンピックの開会式当日、重大な使命を果たすことに恐れおののいた祐一君が地下のトイレに逃げ込むようなエピソードとして描かれていたが、実際は違うようだ。

彼は会場で愛用のカメラを片手にあちこち撮影しまくっていたと聞いた。

彼自身をして自分自身の作曲家人生の集大成と言わしめる作品。

オリンピックに集う世界中の人々へ向けた彼の応援歌。

そんな位置づけで作られた曲だと伺っている。

エールの物語の中ではこのエピソードが本当の最終週で語られていたので、ずいぶんと時間がかかった感を受けてしまったが。

実は、この物語は本来の話数より10話少なく作られている。

あのコロナ騒動があったおかげで撮影が中断したため、撮影が再開しても残りの放送スケジュールを考えたときにどうしてもやむを得ない措置だったと聞いた。

物語は最後の1ヵ月ぐらいは本当に駆け足で突っ走った感があったよね。

注目 古関裕而さんの晩年

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69年に紫綬褒章を受賞している

70年代に入った古関先生はフジテレビのオールスター家族対抗歌合戦で審査委員長としてテレビでよく見かけた。

あの番組は私も時々見ていたが、とにかく絶対にケナさなかったよね。

先生はどんなめちゃくちゃな歌であっても必ず良いところを見つけて褒めちぎることを欠かさなかった。

周りの人はそんな古関先生をグランパと言って信頼し尊敬していたようだ。

実は、そんな彼にもやがて別れが訪れてくる。

最初に訪れたのは1973年菊田一夫の死去だろう。

1980年になると、あの伊藤久男がなくなっている。

そして何よりも注目すべきは

80年には最愛の妻金子さんがおよそ2年の闘病を経て癌で亡くなったのだ。

葬式の時、古関さんは憔悴しきった姿で人々の前に現れていたらしい。

挨拶も消え入りそうな声で

お世話になりましたとそれだけ。

周りで友達が見ていたが、あまりにも気の毒でかける言葉もなかったそうな。

特に奥様が出棺されるときに、泣きじゃくりながら追いすがる様子は周りの人の涙を誘ったと聞いている。

よほど愛し合っていたんだろうなと素朴に推察。

この頃、73年には私とひょっとしたらニアミスするようなところにもいたようだ。

www.kuwa-chu.com

 実は調べてみると古関さんご夫妻はこの近くの生田春秋園にお墓がある。

私が何年間か関わった東京暮らしのちょうどその土地柄と被る。

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生田春秋園にあるお墓 裕而さんの遺骨は分骨されて福島にも

ご夫婦揃って安らかに眠られているようだ。

間違いなく日本を代表する大作曲家だった事は言わずもがな。

まとめ

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最晩年と思われるプロフィール 長男の正裕さんは今も活躍中

80歳で亡くなった古関裕而さん。

写真で見る限り随分とお年をめされた感じを受ける。

1985年にいちど心筋梗塞で入院した後、その後入退院を繰り返していて、

最後は1989年聖マリアンナ医科大学で亡くなられた

朝ドラエールはコロナ騒動と戦いながら果敢にも大勢の人に元気を送り続ける物語となった。

撮影が終わった後主人公の久保田正孝くんが福島の古関先生のお墓にお参りをしている。

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エールはここに帰結したと思う

私的にも後半は物語に向かうモチベーションが変わったなと思う。

それは自分自身の人生とも被る部分が発見できたから。

自分の熱意や夢を形として残すことができる人は世の中にほんの1部しかいないのはよくわかる。

古関裕而さんはその中の数少ない1人。

そして彼の人生を考えたときに、決して外すことのできないのは奥様の金子さん。

エールでは女優二階堂ふみの熱演が光ったが、正直なところを言えば放送枠が少なすぎてもっともっと語るべき部分が多かったように思うのだ。

さて、そうはいってももうこれで物語は終了する。

私もここでリセットして前へ進むことにしようか。